みんなの"トモダチ"、相澤ロボット兄弟の誕生
そして、ついに昭和34年(1959年)3月21日、次郎氏・研一氏と財団のスタッフたちは、初の大型ロボットであり今回の修復プロジェクトの対象にもなっている「一郎」(身長2.15m)を誕生させる。プロデュースの才にも長けていた次郎氏は、海外視察から帰国の際、この「一郎」くんに羽田空港で出迎えさせたとか。その様子は新聞などで取り上げられて話題を集め、財団はその後、"一郎"の兄弟となる大型ロボットたちを次々と生み出していった。
こうして誕生した相澤ロボット兄弟は、東京・九段の科学技術館をはじめ都内各地の児童館、東京タワー、全国のデパートの"ロボット博"イベントなどで展示・実演され、子供たちの人気を博した。
ロボット兄弟は、長男"一郎"の後に作られた弟たちにも、それぞれ「三郎」、「五郎」、「八郎」、「九郎」、「十郎」といった人間同様の名前が付けられていた。(「太郎」もいるのだが、「次郎」や「二郎」は相澤氏自身とかぶるためか存在せず、また、「四郎」、「六郎」、「七郎」もネーミングとしては存在しなかったようだ。)
また、次郎氏はロボットたちを"1体"や"1台"ではなく、必ず"1人"、"2人"と数えた。次郎氏にとって"ロボット"とは、たとえ機械然としていてもあくまで人造"人間"であり、ロボットは人類の善き協力者であるという信念、そして自ら生み出した子供たちとして深い愛情を持っていたからだ。
次郎氏がその生涯で生み出したロボットは、大小含めて800"人"以上になるという。戦前から作っていたボール紙のロボットや、ロボット楽団員などもすべて勘定に入れてのことだろうが、それにしてもすごい数だ。まさにロボット一筋、信念の人である。
そんな次郎氏は、ふだんは寡黙だが不思議なカリスマ性を持った人物だったそうで、ソニー創業者の故・井深大氏、マンガ家の故・手塚治虫氏のような"大物"とも親交があったという。そんな縁から、1970年の大阪万博でも、手塚氏プロデュースの「フジパン・ロボット館」にロボットを出展。2体1組で記念写真を撮ってくれるカメラマンロボットとモデルロボット、ロボット兄弟の中でもっともノッポな「EXPOくん」は、日本の子供たちはもちろん、世界の人たちと触れ合い、未来への夢を与えた。
その後も相澤ロボットは、1980年代前半まで全国各地のイベントに登場。海を越えて台湾や韓国で開催された大規模なロボット博にも出展・実演を行い、大勢の観客を集めた。
しかし「EXPO'85 つくば科学万博」の開催でロボットブームがますます盛り上がり、トミーの「オムニボット」シリーズや、任天堂のファミコン用ロボットなども続々登場する中、80歳を迎えた次郎氏は引退。それとともに職人たちも離れ、財団は形としては存続したものの、ロボットの製作活動は終焉を迎えた。
その後、次郎氏が幼少時代に夕張で暮らしていたことから、昭和63年(1988年)にオープンした"ゆうばりロボット大科学館"へロボット兄弟たちは寄託展示されることになり、以後、段階的に移設されていった。それが昨年、同館の閉館により、21年ぶりに次郎氏亡き後の財団へ帰ってきたという訳だ。