ランキングの前に、ミック・テイラー期ってどんな時期?

ブライアンの死を乗り越え、ロンドンのハイドパークで新ギタリストのミック・テイラーを迎えて追悼コンサートを行います。当代きっての名ライブバンドとしては、いまいちな演奏でしたが、キース曰く「出来は最悪レベル、でも最も重要なコンサートでもあった」とのこと。いわゆる「場面」ってやつですね。ミック・テイラーは、ジェフ・ベックやエリック・クラプトンのようなスーパーギタリストだったので、バンドの音楽性はどんどんあがっていきます。

ハイドパークでのコンサートを観ることができる映画『The Rolling Stones Hyde Park Concert』の予告編。ブライアンの死の2日後に、ハイドパークで約50万人を前に演奏しました。ミック・テイラーはビビりまくりで、演奏はいまいち。この人、演奏技術はすごく高いのですがステージが苦手のようで、ストーンズ以前には、「自信がない」と言ってステージにでないこともあったそうです

その後、ウッドストックのようなフリーコンサートがやりたくなったストーンズは、カリフォルニア州にあるオルタモント・スピードウェイでオルタモント・フリーコンサートを開きますが、ここでロック史上屈指の悲しい出来事『オルタモントの悲劇』が起こります。ライブを見に来ていた黒人の青年を、警備をしていたヘルズ・エンジェルスが刺殺してしまうのです。もはやコンサートとはいえない異様な雰囲気の中での演奏は、映画『ギミー・シェルター』で観ることができます。

映画『ギミー・シェルター』予告編。オルタモントの混乱の様子が見てとれます。ステージに上がってこようとする暴徒寸前の観客にビビるミック。「暴力はやめろ、さもなきゃ演奏しないぞ!」と怒るキース。輝かしい60年代が暗転していく瞬間でした

ウッドストックのラブ&ピースな雰囲気を、ネガポジ反転のように悪夢化してしまったこの経験のせいか、以来、若者の怒りの代弁者のようなふるまいは控えめになり、音楽も悦楽的な内容にシフトしていきます。南仏で貴族的に暮らしながら、ドラッグにふける日々。音楽的には充実していましたが、やがてバンド、特にキースに悲劇が訪れるのでした(つづく)。

トップ3から発表します! この3曲です!

1位:「悲しみのアンジー」 /『山羊の頭のスープ』(1973年):132票
2位:「ブラウン・シュガー」/『スティッキー・フィンガーズ』 (1971年):113票
3位:「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」/『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』 (1974年):91票
※n数=663

「悲しみのアンジー」は「黒くぬれ!」同様、日本での人気がとびきり高く、来日公演でもたびたび演奏されています。ストーンズは、セットリスト選びにも気を使うバンドで、「日本でうけるかな」じゃなく、「札幌で、横浜で、うけるかな?」というレベルで検討して、演奏曲を決めるそうですね。さすが、ギネス級の成功バンド。

1位の「悲しみのアンジー」(1973年)。感傷的なメロディを歌い上げる、ミックのヴォーカリストとしての表現力を感じます。セッション・ミュージシャンとして、ビートルズやザ・フー、T・レックスなどの数々の名曲にかかわったニッキー・ホプキンスのピアノも名演です

「ブラウン・シュガー」は、バンドがノリノリ状態のツアー中に、アラバマに寄って録音されたもの。悦楽的な内容の代表曲かな。「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」はストレートな歌詞が魅力ですね。これは後にメンバーとなるロン・ウッドと作った曲です。ロンのソロ・アルバム用のレコーディングではありましたが、ミックに「ちょうだい」と言われストーンズに進呈しています。ロン曰く「なんせ弟子なんだしね、別に疑問には思わないよ」とのこと。大人! ちょっと理不尽なようですが、彼はこの後輩力で、後にバンド加入できることになります。

2位の「ブラウン・シュガー」 (1971年)。ストーンズのコピーバンドをやるとなると、高確率で候補にはいってくる曲ですね。シンプルに聴こえるけど、これを上手く演奏するのは難しいんだ。化学変化のように生まれる、ハネたノリはそう簡単にはでません

3位の「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」 (1974年)。ホーンやピアノをなくして、シンプルなバンドセットで演奏することにこだわったアルバムの表題曲。これだけシンプルでストレートな歌詞を歌っても、恥ずかしくないのはストーンズぐらいでは。キースがサイドヘアーを脱色している頃ですね。この頃キースは、「彼はドラッグ検査から逃れるため全身の血を入れ替えている」なんて噂されていました

4位以下も発表します!

4位:「ダイスをころがせ」/『メイン・ストリートのならず者』(1972年):56票
5位:「イフ・ユー・キャント・ロック・ミー」/『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』 (1974年):54票
6位:「キャン・ユー・ヒア・ミー・ノッキング」/『スティッキー・フィンガーズ』 (1971年):43票
7位:「ワイルド・ホース」/ 『スティッキー・フィンガーズ』 (1971年):40票
8位:「ムーンライト・マイル」/『スティッキー・フィンガーズ』 (1971年):36票
9位:「タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン」/『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』 (1974年):34票
10位:「ハッピー」/『メイン・ストリートのならず者』(1972年):29票
※n数=663

「ワイルド・ホース」は、哀愁ただようカントリー調の名曲ですが、この曲はフォーク・ロックバンド、ザ・バーズのメンバーだったグラム・パーソンズという人物の話なしには語れません。裕福な家庭に生まれながら、父は自殺、母もアルコール中毒で死亡という波乱万丈の人生を送ったグラムは、キースと兄弟のように仲が良く、所属していた人気バンド、ザ・バーズの活動をほっぽりだして、キースとのセッションに没頭。カントリー界のジミ・ヘンドリックスと呼ばれた才能豊かなグラムの影響を受け、キースのカントリー志向がどんどん高まりました。

  • 『グラム・パーソンズの生涯 ~ フォールン・エンジェル』(ワーナーミュージック・ジャパン)グラムの軌跡を追ったドキュメント。カントリー界のジミ・ヘンと聞くと、なんとなく髭面のワイルドメンを想像しますが、グラムはツルッとした色白のハンサムさん。南仏のキース邸などで行動をともにしていましたが、グラム自身のソロ・アルバムのためにアメリカに帰国した後、ドラッグのオーバードーズで死亡してしまいます。キースはグラムのほかにも、かけがえのない友を次々にドラッグで失うことになります

この曲は、そんな中で生まれた曲ですが、ストーンズの曲をカバーしたグラムの新バンド、フライング・ブリトー・ブラザーズのカバー版の方が、ストーンズより1年も先に発売されています。世界的人気バンドの曲のカバーをオリジナルより1年も前にリリースするのは普通ありえないですが、キースとグラムの仲ならではです。また、この曲の叙情的な歌詞も格別。これはミックの才能です。歌詞の文体はワイルドでも、文学性は高いというギャップね。そりゃ文化系女子がころりとやられるはずです。

7位の「ワイルド・ホース」 (1971年)。上がストーンズ、下が1970年発売のフライング・ブリトー・ブラザーズによるカバー。ストーンズ版の方が、よりキラキラしている感じ

この時期、アルバム単位でどれか一枚と言われたら

『スティッキー・フィンガーズ』(ユニバーサル ミュージック)ですかね。自分たちのレーベル一発目のスタジオ・アルバムで、ベロマークが初登場したのもこのタイミング。前2作もブルース臭はプンプンですが、本作はイギリス臭がいよいよ薄れて、アメリカ~ンな感じ。次の『メイン・ストリートのならず者』は2枚組のさらに重厚な内容のアルバムで、じっくり浸るならこっちなんですが、初めて聴く人にはやや重いかなと。このアルバムの適度な軽さと、「ブラウン・シュガー」→「スウェイ」→「ワイルド・ホース」という、ストーンズの魅力をグッと3曲に圧縮したような流れが最高です。あとは、ポップアイコン的な価値もあると思います。壁に飾っておくなら、このアルバムですね。

  • 『スティッキー・フィンガーズ』アルバムジャケットにジッパーをつけるというアンディ・ウォーホルの発想は、今考えてもキレキレです。日本版は、ジッパーがYKK製だったそうです。ちなみに、あのベロマークをデザインしたのはウォーホルではなく、イギリスのグラフィック・デザイナー、ジョン・パッシェが考案したもの。人をバカにしたような、エロティックなような、「ベロを出している」というモチーフは、同じく舌を出しているヒンドゥー教のカーリー女神からヒントを得たものだそう