ここで、話を14-Aの開発前夜に戻そう。

俊雄氏が計算機の開発を長男の忠雄氏に持ちかけたのは、1949年に東京・銀座の松坂屋で開催された「第1回ビジネスショウ」において、電動計算機を見てからだ。

それ以前にも、東京・日比谷の東京宝塚劇場で行われた、そろばんと計算機による日米対抗計算試合の新聞記事を見て、「算盤(そろばん)は神経、されど計算機は技術なり」とメモに書き、計算機の将来の可能性に着目していた俊雄氏は、その後、計算機の開発に着手。

1954年にはソレノイドを使った計算機の試作機を開発するが、商社から3つ以上の数字を掛け合わせて計算する「連乗機能」がないことを指摘された。そして改良に着手といった経緯を経て、1956年にリレー式計算機の開発に成功している。のちの14-Aには連乗機能が搭載されたのも、このときの経験が生きている。

だが、俊雄氏は、このとき大きな壁にぶつかることになる。

札幌の太洋セールス本社でリレー計算機のデモを行うことが決定。これが、俊雄氏が開発したリレー計算機の初披露の場になったのだ。

前日にようやく完成した試作機を飛行機に乗せるため、羽田空港を訪れた樫尾兄弟の前に立ちはだかったのは、飛行機に乗せるには高さが搭載規定を上回っていたという思いもしない問題だった。

札幌へ輸送したリレー計算機の試作機

そのため空港で卓上部分を切り離して分割し、札幌へと試作機を輸送することができた。フライトの時間を考えれば、かなり大急ぎで作業したことが想像できよう。複雑な配線も短時間で切り離したに違いない。

俊雄氏らは、札幌に着いてから徹夜で配線を元に戻したものの、掛け算と割り算がどうしても計算できない。結局、当日に行われた太洋セールスでの試作機発表の場で、俊雄氏は最初に「実を申しますと、動きません」と口にしなくてはならなかったという。

このとき、三男の和雄氏(現・カシオ計算機 代表取締役社長)は、俊雄氏に向かって、こう声をかけた。

「やれるだけやったんです。それに失敗の原因もはっきりしているんですから」

ショックを受けていた俊雄氏にとっては、前向きな気性の和雄氏の言葉がうれしかったという。

複雑な配線は、当時の計算機の製造には大きな苦労を伴うものだった。

ある日、俊雄氏は、配線ミスを解決する手立てを考えたという。

それは「カシオキミムクチダネ」(樫尾、キミ、無口だね)である。

配線ケーブルを、赤(カ)、白(シ)、青(オ)、黄(キ)、緑(ミ)、紫(ム)、黒(ク)、茶(チ)、橙(ダ)、ネズミ色(ネ)という10色に色分けし、それぞれに結合すべき配線先が分かるように工夫したのだ。これによって、配線ミスはほとんどなくなったという。

同じ色の線同士をつなぐだけでミスなく配線できる。写真右は配線部分を拡大したもの

札幌での発表会では失敗に終わった俊雄氏だったが、同年、東京都内の内田洋行本社で計算機のデモを行い、成功を収め、その後、内田洋行はカシオの計算機を取り扱うことになる。

1957年には「カシオ計算機株式会社」を設立し、同年、東京・大手町のサンケイ会館で14-Aを発表、計算機市場におけるカシオのポジションを確固たるものにしていった。樫尾俊雄発明記念館に展示されている14-Aの銘板には「内田洋行」の文字が入っている。

14-Aの銘板には、カシオのロゴとともに、内田洋行の文字も入っている

1956年に俊雄氏が出願した特許。名称は「多進法継電式計算機における基本的加算方式」

俊雄氏は、14-Aのあとにも計算機の開発に取り組むが、その成果はのちの電卓、時計、電子楽器などの開発にもつながっていく。樫尾俊雄発明記念館では、「進化の部屋」に電卓を展示しており、今後、時計や電子楽器も加える予定だ。