それではまず、ゼンリンがどのような企業なのかといった概要から説明しよう。まずはその社名の意味だが、隣近所や隣国など、近隣と親しくするという意味の「善隣友好」にちなんでつけられたという。地図データは軍事的にも重要であることから(実際に中国などは現在も公開していないそうである)、創業者の大迫正冨氏の「平和でなければ地図作りはできない」という思いが込められた社名なのだそうだ。同社の本社は前述したように北九州にあり(東京の御茶ノ水(千代田区神田淡路町)にも東京本社がある)、国内に約80の拠点を持ち、国内外に関連会社がある(画像3・4)。
同社の歴史を紐解くと、創業は1948(昭和23)年まで遡る。まだ戦後と呼ばれる時期に、まず観光文化宣伝社として別府市でスタートした。その1年後、観光文化宣伝社を創業した1人である大迫氏が、同社の出版部門を引き継ぎ独立し、華交観光協会を設立。そして、別府市内の観光小冊子「年刊別府」を発行した。しかし、そこで意外な評価を得ることになる。観光客に好評を博したのは名所旧跡の紹介記事ではなく、本来は付録として添付したはずの市街地図だったのだ。
しかも、地元の商店会から市街地図への掲載依頼も殺到したことから、大迫氏はそれをきっかけに、住宅地図を手がけることに大きく方針を転換することになる。ちなみにその住宅地図を作るのに参照したのは、江戸時代の古地図だったそうだ。古地図には大名、旗本などの武家屋敷や、商家の屋号などが詳細に記されていることから、大迫氏はそれにならった作り方をすれば必ず喜ばれるはずと直感したそうである。
そして、1950年に善隣出版社として改称し、刊行別府を発行しながらも、1軒1軒歩いて調査して住宅地図の製作に入り、1952年に「別府市住宅案内図」を発行。これが、現在の住宅地図の元祖というわけだ。その後は、小倉市(現在の北九州市小倉北区)に本社を移し、各地の同業他社を少しずつ吸収合併するなどしつつ、それらを足がかりにして徐々に全国に進出していったというわけだ。
それから60年以上が経った現在では、住宅地図データベースは全国市区町村の約99%が整備済みである(残り1%は、東京都の伊豆諸島の一部、小笠原諸島だそうである)。しかも、それだけの規模で全国展開しているのはゼンリンのみだという。ちなみに北九州にあるゼンリンが運営する一般公開施設「地図の資料館」には、紙の住宅地図帳がズラリと並べられており、誰でも確認することが可能だ(画像5・6)。
画像5(左):ゼンリン運営の「地図の資料館」にズラリと並べられた紙の住宅地図帳。全国99%が網羅されており、読者の大多数の方の家やマンションも入っている。画像6(右):市区町別にまとめられており、これは千葉県と東京23区の辺りの棚のアップ |
また、手書きの地図のことを「筆耕版」というのだが、その版下原稿も地図の資料館に展示されている(画像7・8)。版下原稿は毎回新しく作るわけではなく、修正を加えて毎回使う形で、実際に変化があった場所はホワイトをかけて新しい情報を書き込んでいく。なので、筆耕版の版下原稿はまるでマンガ原稿のような感じだ。現実世界の変遷と共に何度もホワイトをかけられて修正されており、街がどれだけ変化してきたかが一目でわかり、歴史的に非常に貴重な資料なのである。
画像7(左):実際に使われていた筆耕版の版下原稿。ありとあらゆるところにホワイトがかけられ、居住者氏名やテナント名だけでなく、街の区画まで変化しており、どれだけその街に変化が生じたかがわかる。画像8(右):版下原稿のアップ。鉄道の路線にホワイトがかかっていないぐらいで、街が長年にわたり大きく変化しているのがわかる |
それから、調査員が足で地道に調査するというスタイルは現在でも継承されており、現在は全国の70拠点に所属する約1000名が調査についている(画像9・10)。夏は汗をかきながら、冬は寒さに耐えながら、調査員は靴底をすり減らして、読者の皆さんの家やマンションの前も1軒1軒地道に歩いてローラー調査を行って、その成果を今でも全国の2100タイトルを発行する住宅地図帳の製作に反映させているのである。刑事とどっちが靴をすり減らすかというぐらい、調査員は街を歩きまくるので、地元の住人と同等、下手したらもっと詳しくなるほどだという。