アメリカ東部時間11月1日、NYSEユーロネクスト傘下のニューヨーク証券取引所で、白いスポーツウェア姿の中国人男性が取引開始を告げるベルを鳴らした。同取引所にはスーツを着用していない人物は入場させないという厳しいルールがある。例外として入場が認められ、しかもベルを鳴らした中国人男性とは一体誰なのか。

彼こそ、この日NYSEユーロネクストに上場を果たした中国最大のオンラインゲーム企業の上海巨人網絡科技 (Giant Interactive)の創業者で、董事長兼CEOの史玉柱氏だ。史氏は中国ビジネス界で「奇才」と呼ばれる名物男で、常に話題の中心になる人物として知られている。本レポートでは、史氏の波乱に富んだいくつもの創業ストーリーを紹介しつつ、巨人網絡のNYSEユーロネクスト上場が中国オンラインゲーム業界に与える影響を考えてみたい。

巨人集団を設立、"チャイニーズドリーム" のシンボルに

史玉柱氏は、1962年に安徽省懐遠県で生まれた。1984年に浙江省の浙江大学数学学部を卒業後、1989年に深セン大学大学院修士課程を修了し、ソフトウェアの研究で修士号を取得。1991年に4,000元を借金して創業、経済特区の深センでソフトウェアの開発・販売を行う巨人集団を設立した。トウ小平氏が「発展できるところから発展して中国経済を牽引すればよい」という改革開放政策を説いた南巡講話によって市場経済化に拍車がかかった1992年、同社本部を深センから広東省の珠海に移転、本社ビルとして「巨人ビルディング(巨人ビル)」の設計に着手。事業を展開する中で、独自開発したワープロソフトの販売で成功、3,500万元(約5億1,400万円)の純利益を獲得した。

1993年にはノートPCや各種アプリケーションソフトを商品のラインナップに追加、同年3億6,000万元(52億8,800万円)の純利益を上げ、一躍中国第2位の民間ハイテク企業となった。1994年には、当初、38階建てとして設計された巨人ビルの設計を70階建てに変更した。同ビル完成の暁には、当時中国で最も高い建物になるはずだった。

同ビル建設には10億元(約146億9,000万円)もの資金が必要だったが、史氏は銀行からは1元の借入れも受けず、民間の投資資金による増資や商品の先行販売でやりくりし、資金を調達した。1995年、同氏は経済誌「中国版フォーブス」の富豪ランキングにランクインし、中国全土で第8位の"スーパーリッチ"とされた。同氏はこの年、中国の改革開放政策の下で活躍する10人の風雲児を選んだ「中国十大改革風雲人物」にも選ばれている。わずか5年足らずの間にここまで大きな成功を手にした史氏は、紛れもなく中国実業界の若きスター、青年起業家たちのあこがれの的、チャイニーズドリームのシンボルとなったのである。

自らも「負債を負う貧しい人」と自嘲

だが、すべてが順風満帆というわけにはいかなかった。史氏は巨人ビル建設のための資金調達でまずつまずいた。入手できたのはわずか1億元(約14億6,900万円)。着工から3年が経過した1997年初めになっても、ビルは計画通りに完成されず、債権者からは借金の返済を厳しく迫られた。

結局、地上3階までだけしか建てられず、巨人ビル建設計画は頓挫。巨人集団は2億5,000万元(約36億7,200万円)の債務をかぶってしまう。マスコミはそれまでの史氏へのカリスマ扱いから手のひらを返し、今度は一気に「史氏バッシング」の大合唱を始めた。「中国で最も失敗した経営者」「最も無謀な経営者」「猪突猛進の青二才」といったレッテルが貼られ、サクセスストーリーの主役の座から、「救いがたいダメ経営者」とののしられるまでに転落したのである。

大方の見方は、史氏もこれでオシマイ、というものだった。同氏も自らを、「中国で最も多くの負債を負っている貧しい人」を意味する「中国首窮」と自嘲していたほどだった。