注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、日本テレビ系バラエティ特番『クイズタイムリープ』(29日22:00~)企画・演出の生山太智氏だ。
“現代の出演者(タイムリーパー)”がAI技術を駆使して『クイズ世界は SHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』といった名クイズ番組にタイムリープし、“放送当時のスタジオ出演者”に挑む同番組は、最新技術とノスタルジーの融合が大きな話題となり、8月に放送された第1弾がギャラクシー賞の月間賞を受賞。生山氏はスポーツ局の所属ながら、入社1年目から積極的にバラエティの企画を出し続けているが、そこにはどんな思いが込められているのか――。
全寮制生活唯一の娯楽だったテレビ
――当連載に前回登場した放送作家の町田裕章さんが「自分やってる番組以外で今年見て面白いなと思ったのが、日テレの『クイズタイムリープ』ですね。5年前でも5年後でもできない今の時代にしか作れないバラエティって感じですごく好みの番組でした」とおっしゃっていました。
めちゃくちゃありがたいですね。『サンバリュ』というトライアル枠でギャラクシー賞(月間賞)を頂いたり、佐久間(宣行)さんがYouTubeで話してくれたり、藤井健太郎さんもツイートしてくれたりと、業界の先輩方たちから褒めていただく機会があったので、それに関しては思っていた以上の反響でした。
――今回の第2弾の収録後に劇団ひとりさんに話を聞いたら、第1弾の放送後、他局のスタッフさんに「あれどうやって撮ったの?」とすごい聞かれたとおっしゃってました。
ひとりさんは、第2弾の収録前に楽屋に挨拶しに行ったら、「ちょっと座ってよ。こんな反響があったよ」と教えてくれましたし、せいやさん(霜降り明星)や(ファーストサマー)ウイカさんもX(Twitter)で感想を投稿してくれて、演者の方々が前のめりにやってくれる姿を見ると、すごくうれしいです。
――生山さんに以前取材した際、明治大学の野球部で3年生時に大学日本一に輝いたことを伺いましたが、なぜテレビ業界を目指したのですか?
小学校から野球を始めていたのでテレビと触れる時間が比較的短くて、大学も全寮制だったんですが、その中での唯一の娯楽がテレビだったんです。朝5時から練習が始まるんですけど、昼の食堂にテレビがあって、いつも日テレがついていました。なのでそこで『ヒルナンデス!』を見て、午後練から夜間練までの間は『news every.』を見ていましたね。上級生になると自分の部屋にテレビが置けるので、疲れていて寝る前の30分しか見られないんですけど、そこで『月曜から夜ふかし』とか『(世界の果てまで)イッテQ!』とか、選りすぐりの番組を見て寝落ちしてました(笑)
そんな生活を送っていたのですが、卒業後にプロを目指すか、就職するかという迷いの時期があるんです。大学でも副キャプテンをやっていたのですが、間近でプロに声をかけてもらう選手を見ると自分は無理だなと思って。社会人野球に進んで都市対抗に出てからプロを目指すという道もあったのですが、就活という決断をしました。そこで、昔から巨人が好きで、野球中継をやってるテレビが自分が野球を始めるきっかけでしたし、『Going! Sports&News』の「亀梨和也ホームランプロジェクト」という亀梨さんがホームランを打つための極意を学ぶ企画があって、それを見て自分の練習を取り入れたりしていたので、スポーツの魅力や情報を伝えられるマスメディアという仕事をしてみたいと思ってテレビ業界を目指しました。
――六大学野球でバリバリやっていて、テレビ局に入った人はなかなかいないのではないでしょうか。パッと思い浮かぶのはフジテレビアナウンサーのヤマケン(山本賢太アナ)くらいです。
明治の3つ上に、フジテレビでバラエティをやってる大村昂平さんという方がいますが、結構まれだと思います。
――入社されて、早速志望通りのスポーツ局に配属されました。
最初は中継ではなく、ニュース班で『Going!』をやっていました。野球選手ネタの3分くらいのVTRを作らせてもらったのがスタートです。
――大学時代に映像編集とか、全然やってこなかったわけですよね。
全くやっていなかったので、本当にゼロからのスタートでした。明治からプロになった中で、中日の柳裕也選手やDeNAの佐野恵太選手が1年上だったので、そういうコネを使って密着させてもらう企画が最初は多かったと思います(笑)
“昭和スタイル”で企画書を出しまくる
――1年目から、積極的に企画書を出していたのですか?
そうですね。『Going!』の企画書と編成に出す単発枠の企画書を、自分の中でノルマを決めて、1年目には編成に100本くらい出したと思います。明治の野球部って、球拾いとか草むしりとかもやる昭和スタイルだったんですよ。社会ってそういうものだと思っていたので、まずは「生山」という珍しい名字と名前を一致させるかが勝負だと。「生山ってめちゃくちゃ企画書出してくるな」と思わせておいて、フィードバックをもらいに行って「お前が生山か」って覚えてもらう作戦で、質より量を重視していました。
――やはりスポーツバラエティの企画を出すことが多かったのですか?
日テレにはスポーツバラエティの番組が比較的少ないなと思っていて、チャンスがあると思ったんです。この感覚は野球部の時から一緒で、ショートを守れる人が多いからセカンドも守れることをアピールするとか、組織の中で手薄なところにチャンスがあるという感覚で。
それと、スポーツ中継は好きな人しか見ないじゃないですか。でも、昔から『とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)とか、野球部はみんな見ていてスポーツを始めるきっかけをもらったので、そういう番組をやりたいと思って、スポーツバラエティの企画書をたくさん出していたんです。
――スポーツの間口を広げたいという思いからなんですね。
それと、大学スポーツの素晴らしさを体感したからこそ、メジャーにしたいという思いもあります。アメリカはすごく盛り上がっていますが、日本は文化として根付いていないので『Going!』のニュース項目でも落ちるんです。入社1年目のマイナーな自分がマイナーな競技を売り込んでも絶対取り上げてくれないから、そのためには自分の名前を売らなければいけない。名前を売るためには地上波で自分が企画した番組をやらなきゃいけないという逆算ですね。
――大谷翔平さんのマンダラシートのように、戦略を立てていたんですね。
結構そういうのが好きなんです。大学の野球部では、スポーツ推薦、付属校、一般入試と属性が分かれて、スポーツ推薦は『熱闘甲子園』(ABCテレビ)で取り上げられたような有名選手が来るので最初から練習に入れるんですけど、僕は付属校で球拾いから。これが悔しかったので、プロレベルの4年生の分析をめちゃくちゃして、2年生から試合に出してもらえるようになりました。そうやって、どうやったら自分が組織の一番底からレギュラーになれるかと考えるクセがついていると思います。