仮面ライダー1号の「技」、仮面ライダー2号の「力」を受け継いだ3号ライダー=V3の激闘を描いた仮面ライダーシリーズ第2弾『仮面ライダーV3』(1973~74年)が、今年(2023年)で放送50周年を迎える。これを記念し「大人のための変身ベルト」をコンセプトとする人気シリーズ「CSM」で、仮面ライダーV3の変身ベルトが商品化されることになった。

  • 『仮面ライダーV3』で風見志郎を体当たりで演じたアクション派の二枚目俳優・宮内洋

    宮内洋(みやうち・ひろし) 俳優。1947年生まれ、東京都出身。1968年、第12期東映ニューフェイスに合格し、映画界入り。『キイハンター』(放送開始1968年)の第92~262話(1970~1973年)に壇俊介役でレギュラー入りし、人気を高める。その後『仮面ライダーV3』(1973年/風見志郎役)、『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年/アオレンジャー=新命明役)、『快傑ズバット』(1977年/ズバット=早川健役)、『ジャッカー電撃隊』(1977年/ビッグワン=番場壮吉役/第23話から)、『特警ウインスペクター』(1990年/正木俊介本部長役)など多くの特撮ヒーロー作品で活躍した。 撮影:大塚素久(SYASYA)

「CSM変身ベルト・ダブルタイフーン」商品化を記念し、仮面ライダーV3/風見志郎をまさに体当たりで演じたアクション派の二枚目俳優・宮内洋に単独インタビューを敢行した。『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)のアオレンジャーや『快傑ズバット』(1977年)など数々の変身ヒーローを演じ、子どもから大人まで幅広いファンを獲得する宮内にとって、『仮面ライダーV3』は変身ヒーローの「原点」であると同時に、愛着の強い「当たり役」のひとつ。不死身の男=風見志郎役が決まるまでの経緯や、視聴者に鮮烈な印象を残すべくアクションに命をかけた50年前の青春時代を熱く語ってもらった。

――宮内さんが『仮面ライダーV3』の主役・風見志郎役に決まる以前、東映や毎日放送との面談があったとうかがっています。あのころのお話を改めて詳しく聞かせていただけますか。

あれは僕が『キイハンター』の裏磐梯ロケに行っていたころ、スタッフの方から「おい宮内、明日休みをやるから、この撮影が終わったら東京に戻って毎日放送に行け」と言われたのが最初です。何も詳しいことを聞かずに、行けば向こうで待っている人がいるというので、翌日毎日放送へうかがったわけです。そうしたら遠くのほうから「来たよーーー!」って、阿部征司プロデューサーの大きな声が聞こえてきて、なんだそりゃ?って思いましたね。後で知ったのですが、そこが面談の部屋で、平山亨プロデューサーや毎日放送の廣瀬隆一局長はじめ、偉い方たちがズラリと並んでいたところに、僕がドアを蹴破るかのような勢いで入ってきたっていうんです。そう平山さんが本(仮面ライダー名人列伝)にも書いてらっしゃるんですけど、僕としては普通にドアを開けて入ったはずで、そんな勢いで入るわけがありません(笑)。

――それくらい、物怖じしない若手俳優に見えた、ということなんでしょうね。

まあ、目の前に椅子があったので、何も言われないのにドンと座りましたけどね(笑)。そこでいろいろな質問をされて、その日はそのまま帰ったんです。その後、数か月くらいすぎてから、『キイハンター』の撮影中に照明技師の方から「宮内、お前今度仮面ライダーをやるんだって?」と言われ、そこで初めて先日のやりとりが『仮面ライダーV3』のための面談だったことを知ったんです。

――『仮面ライダー』のことは以前からご存じだったのでしょうか。

そういう番組があることは知っていましたが、どんなものなのかはぜんぜん知りませんでした。毎週土曜日の夜は『キイハンター』のスケジュールが入っており、なかなかテレビを観ることができなかったんです。そこで、一度『仮面ライダー』を観てみないことにはな……と思って、ビデオを購入しまして、1本1万円もするオープンリールのテープで録画をして、研究したんです。確か僕が観たのは、仮面ライダー1号と2号がそろう「ダブルライダー回」のどれかだったと思います。

――実際に『仮面ライダー』をご覧になった印象はいかがでしたか。

役者になる以前にテレビで『少年ジェット』(1959年/大映テレビ室)という作品を観ていましたけど、そういった少年向けの勧善懲悪ドラマのひとつかな、という認識でした。あのころは30分枠のドラマが全盛で、その流れを汲んでいるなと思いました。