原作者との密な話し合い
原作が大ヒットしている中で、どのように実写化をしていくのか。映画ならではの表現は必要だが、一歩間違えれば原作者や原作ファンとの関係が悪化しかねない状況もある。今回、原作者・末次由紀からの唯一のオーダーは「原作よりも面白いものを作ってください」。その上で提出した台本のプロットに、最初は厳しい指摘も受けたが、台詞の裏にある気持ち、構成の変更に対する映像ならではの見せ方など、ひとつひとつ丁寧に説明するというプロセスを経たという。
ーー構成の違いについて、密に説明したという点は誠意を感じます。
北島:やはり、漫画と映画では構成が全然変わってきます。紙で読んでいる時と、映像で見るときと、同じシーンでも体感する時間は全然変わってきますし、原作では何巻にも詰め込まれたさまざまなセリフや出来事を、映画では2時間で再構成しなければいけない。
監督と僕の間には「原作の幅を超えない」というルールがありまして。切り取る位置を変えるのは許されるけど、幅を超えることだけは許されない。われわれの都合で変えたところで、印象の中におさまれば大丈夫。『下の句』で言えば、千早がクイーンの若宮詩暢(松岡茉優)に勝つことは許されない。たとえ映画的なカタルシスがあっても、そういう都合で動かすのは、絶対にNGでした。
実は、今回の一番大きな改変は、かるたの原田先生の職業なんですよ。原作では小児科の先生ですが、映画では神主さんになっています。これは実は大きな改変なんですが、不思議なもので全然指摘されたことがありません。太一のまつげはもっと長い、このシーンがない、という意見はいただくことがあるのですが(笑)。
先生が神主になると何が変わってくるかというと、まず合宿のシーン。原作では太一の家で合宿をしていますが、指導者がいない合宿シーンを、映画の尺の中で表現するのは難しい。「神社」という場ができたことで、絵的にも話の流れ的にも説得力が生まれました。
そして、東京都大会の前に太一が神社に行って先生に会うところ。原田先生の「青春ぜんぶ懸けたって強くなれない? 懸けてから言いなさい」というセリフは、原作ではもう少し序盤で出てきますが、映画では観客も一緒に挫折を体験してから言わなければ効かない。幻想的なシチュエーションも必要で、神主という設定が生きてきたんです。その後、原田先生の言葉が東京都大会で太一が見つめる「かみのまにまに」の札につながり、後編の『下の句』では、全国大会が行われる近江神宮につながるという流れができました。