そして、何人か目に声をかけたのが彼女だった。友人らしき女性と話をしていた彼女に、私は聞いた。すみません、ラッセル・スクエア駅までの道を教えてくれませんか?
「あぁ、その道を右に曲がってしばらく歩けば地下鉄の駅があるわ。そこから地下鉄に乗ればいいのよ」と彼女。
だが、東京の地下鉄にひけを取らないロンドン地下鉄の複雑さに辟易としていた私は、そんな面倒をせずにぶらぶら歩いて帰りたいと思っていたのだ。それに、おそらくもう半分ほどの距離しか残っていないはず。
いや、乗り換えもよくわからないし、歩いて帰ろうと思って。そう答えると、彼女は驚きの言葉を口にした。
「そう、わかったわ。一緒に歩いて送ってあげる。○○○(友人の名前)、そういうわけだから、また明日ね」
えっ? いや、そこまでしてくれなくても大丈夫ですよ。道と方向を教えてくれれば。それに、彼女(友だち)はいいの?
彼女は歩き始めた足を止め、振り返ると、ニッコリ笑った。
「いいのよ(笑)」
うわ、可愛いじゃん! ……でも、いくらなんでも無防備過ぎないか? しかも、こっちはどんな人かもわからないオジサン二人だぞ? 人通りの少ない道も通るし……。という、こちらの一方的な心配をよそに、彼女が話しかけてくる。
「ロンドンには仕事で? いつまで居るの?」
観光で。明日には出発たないと。
「忙しいのね。ロンドンではどこに行ったの?」
ウェストミンスター宮殿を見て、ロンドン・アイに乗って……。
「それはいいわね。あれ、すごくゆっくり動くでしょ」
えぇ、30分で一周かな。でも時々止まるから、実際はもっと時間がかかると思う。 「そうそう! 景色は良いけど、ちょっと飽きちゃうわよね(笑)」
こちらの乏しい英語力を気遣ってくれているのだろう、聞き取りやすい明瞭な発音。テンポ良く会話を進める機転の良さ。くるくると表情を変え、ころころと笑う人懐こさ。
そうして15分以上も、彼女は我々と一緒に夜のロンドンを歩いてくれたのだった。あのとき、もし彼女に出会わなければどうなっていたことか。今思い出しても、大きな優しさへの感謝とともに、せめて名前くらいは聞いておくべきだったという後悔が甦る。