教会の前を右手に折れ、ボディショップの手前を左折。まだショップが並ぶが横の路地をのぞくと、古いマンションの軒先にたなびく洗濯物が頭上に見える。今度は右手の上り坂を進む。2分も歩かないうちに、聖ポール天主堂跡が階段の先に見えてきた。これもマカオを象徴する眺めのひとつ。だんだん「世界遺産」の感覚が麻痺してくるが、もちろん、こちらも世界遺産に登録されている。階段下のイエズス会記念広場も世界遺産だ。
現在、天主堂はファサード(正面の壁)しか残っていない。1582年に教会付属の礼拝堂として建設された建物は、高さ約20m×幅約20m×奥行き約35m程度の壮大なものであったと伝えられるが、2度の火災によって現在の姿となった。
ここは日本人にとってもゆかりの深い場所である。1582年、長崎を出港した天正遣欧少年使節が17日間の航海を経てマカオに到着。この天主堂に隣接する学院を宿舎とし、インドヘ旅立つ季節風を待つ間、10カ月ほどをここで過ごしたのだった。
ちなみに、1582年は本能寺の変の年。戦国末期にヨーロッパを訪問したキリスト教徒の日本人少年たちは、1588年、青年へと成長しマカオヘと戻ってきたが、その前年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出していたため、2年間マカオで足止めされた。長崎へ帰国できたのは、1590年のこと。その後も1613年、徳川家康によるキリスト教徒大迫害が始まり、翌年にはキリスト教徒が国外追放され、日本人キリスト教徒も数多く船でマカオに逃げてきたという。その中には、天主堂の再建に関わった人もいたというので、こうした背景を知りながら見物すると一層面白い。
なお、天主堂跡横にある中国廟のナーチャ廟と旧城壁のふたつも、世界遺産に登録されている。