第1章は「パリ、古きものと新しきもの ─理想の都市づくり」と題し、パリの景観をテーマにした絵画と写真が集められている。19世紀前半までのパリは、他のヨーロッパの都市同様に城壁に囲まれ、狭い街路が迷路のように入り組む、典型的な中世の城塞都市だった。1850年代から、時の皇帝ナポレオン3世の命により大改造が行なわれる。その結果、1870年代までに、今日見るような近代都市に生まれ変わった。
会場に入って一枚目に掲げられたジャン=バティスト=カミーユ・コロー(1796~1875)の「ジェーヴル河岸から眺めたシャンジュ橋」は、1830年頃描かれた。出品作の中でもっとも古いパリの姿がここにある。セーヌ河対岸に見慣れたノートル=ダム大聖堂の鐘楼が遠望でき確かにパリなのだが、その佇まいはまだどこかドイツあたりの中世都市にも似て、「花の都」の趣はない。パリ大改造が始まるのは、この絵から20年後のことだ。
歩みを進めると、大改造が一段落した後の1876年に描かれた作品が現れる。クロード・モネ(1840~1926)の「テュイルリー」。第3回印象派展に出品された名画だ。パリ・コミューンの蜂起鎮圧という悲劇を乗り越えて復興の息吹にあふれ、我々が知るパリと重なる。さらに会場を進めば、20世紀に入って描かれたポール・シニャック(1863~1935)の「ポン・デ・ザール」(1928年)やリュシアン・リエーヴル(1878~1953以降)の「ピガール広場」(1927年)、モーリス・ユトリロ(1883~1955)「コタン小路」(1910~1911年頃)が次々と現れる。そこにあるのは、まさに若き芸術家たちを魅了した「花の都」の風景であった。
コロー「ジェーヴル河岸から眺めたシャンジュ橋」に描かれたパリには、大改造以前の古い城塞都市の面影が |
クロード・モネ 《テュイルリー》 1876年マルモッタン美術館 (c)Musée Marmottan Monet, Paris,France/The Bridgeman Art Library |
19世紀後半の大改造に加え、1900年まで5回にも及んだ万国博覧会の開催は、さらにパリに様々な名建築を加えていく。プティ・パレ、グラン・パレ、オルセー駅舎、メトロ……。そして1914年にはモンマルトルの丘の上にサクレ・クール聖堂がそびえる。だが、中でももっともパリの風景を一変させたのは、フランス革命100周年にあたる1889年の万博で建設されたエッフェル塔だった。
エッフェル塔が育んだ写真芸術
鉄骨という新素材、高さ300mという巨大さ。来るべき20世紀という時代を予告するかのようなエッフェル塔は、パリの街並みにふさわしくないと芸術家やインテリから非難の的となったという。当時エッフェル塔を描いた画家は見当たらない。だが、写真家たちにとっては格好の被写体だった。日々空に向かって伸びていく様子を記録として撮影していた写真家たちは、やがてその姿から受ける感動を映像によって伝えはじめる。それは絵はがきやカードという形をした新たな「絵画」として人々に普及していった。
オルセー美術館は、そうした写真コレクションで知られるが、今回数多くの作品を提供した。建設工事の公式カメラマンだったルイ=エミール・デュランデル(1839~1917)、画家でもあったガブリエル・ロッペ(1825~1913)から無名の写真家に至るまで、さまざまな人々が撮影したエッフェル塔の写真が並ぶ。いずれも記録写真、風景写真のはずが、エッフェル塔という巨大な存在を前に特別な思い入れが生れたのか、いつしか塔自体がまるで人格を持った被写体として描かれはじめるのが見てとれておもしろい。
ロッペ「エッフェル塔の落雷」(1880年頃)はそんな代表的な作品だ。パリの街を睥睨するかのように屹立する巨大なエッフェル塔は、まるでこの街を治める王のようだ。エッフェル塔そのものがすでにパリの象徴として描かれている。その頂に落雷する閃光。エッフェル塔は、単なる建築物を超えた存在であることが、この写真からは伝わってくる。パリは、まだ揺籃期にあった写真という新しい技術を芸術にまで高めた。この写真は、当時も今も絵はがきとしてもっとも人気がある1枚だという。
実は、エッフェル塔は万国博覧会のモニュメントに過ぎず、本来20年で取り壊される予定だった。しかし、20世紀に入り無線電信の電波塔としての利用価値が出て生き残る。設計者のギュスターヴ・エッフェル(1832~1923)は、鉄橋の設計技師であり、芸術性をもつ建築家ではない。だが、彼が己の技術に忠実であるがゆえに生み出した美しい曲線を描くエッフェル塔のデザインは、後にパリを象徴する"芸術"となった。本展の主催者がもっとも展示したかったのは、エッフェル塔そのものだったに違いない。