DHAの存在は脳にどのような影響をもたらしているのか
現代の先進諸国の食事風景は先述のとおり西洋的、いわゆる肉類を中心としたものが大半を占める。よくカロリーオーバーという指摘がされるが、その摂取カロリーに占める脂肪の割合が増加(油分過多)している状況ともいえる。そうした状況を鑑み同氏は、「ジャンクフード的な食事の摂取が健康への悪影響を及ぼすと言われていうが、実は脳にも影響を与える点にも注意を促す必要がある」とする。
実際のところ、どのように脳に影響を及ぼすのだろうか。脳の60%が脂肪であることを考えれば、ある程度の油分を摂取することは理に適っている。しかし、その多くは、植物や肉、乳製品などを由来する、いわゆる「オメガ6系」と呼ばれる脂肪酸で、必須脂肪酸としてリノール酸などが知られている。一方で、DHAなどが属するオメガ3系は、緑色葉野菜や海藻、一部のナッツと種子の油に含まれる短鎖多価不飽和脂肪酸であるαリノレン酸を除いたEPAやDHAなどは魚類や海産物に多く含まれており、そうしたものを摂取しなければ、体組織中におけるオメガ3の濃度は下がる一方ということになる。
そうした中、さきほど脳の構成要素にDHAが含まれるとしたが、脳内の細胞膜を正常な構造として維持しようとすると、構成要素の6~10%をDHAが占めている必要があるが、オメガ3の濃度が下がればそうした維持も困難になってくる。そうなるとどうなるかというと、DHAの脳内での役割を考えるとわかりやすい。DHAは脳内ではシナプスに特に集中して存在し、ドーパミンやセロトニンなどのシグナル伝達物質の濃度を密接に関係している。DHAが脳内で欠乏してくると、セロトニンの濃度もすぐに低下していくことが判明している。
セロトニンは人間の精神面に影響を与える物質として知られており、一部では「幸せ物質」とも言われているほか、うつ病にかかると、数が減少することなどが知られており、抗うつ薬ではセロトニンなどの量を増やす仕組みが取り入れられている。DHAは胎児の時点で胎盤から選択的に供給され、出産後もわずかずつだが母乳から乳児に供給される。そのため、「もし母乳での育児が難しいのであれば、育児用の調整乳の存在が重要になってくる」と同氏は説明する。もし母親がDHAが不足した状態で胎児に十分にそれを供給できなければどうなるか。2009年の研究では、胎児の脳内シナプスが十分に与えられた場合に比べて、欠乏した状態になることが報告されている。また、網膜の重量の30~50%がDHA(全脂肪酸の50~60%)であり、DHAが不足すると網膜のシグナル伝達がほぼゼロまで低下してしまい、その結果、視覚、空間、注意処理などに関するさまざまな障害にもつながることとなるという。
こうしたDHAの欠乏が、日本でも近年社会問題として取り上げられるようになってきた発達障害/行動障害である「注意欠陥・多動性障害(Attention Deficit Hyperactivity Disorder:ADHD)」と関連している可能性がでてきている。ADHDは、米国でも10%の子供に症状が確認されており、英国でも7%の子供が当てはまるという。また、ADHDと重なる症状として、失読症や統合運動障害、自閉症スペクトラムなどがあり、それらに該当する人も含めるとかなりの数となることが想像できるだろう。「こうした診断名は単に診断書に記述された名称であり、その本質に迫ったわけではない。実際に、個人ごとに掘り起こしていくと、さまざまな要因が関わっていることが見えてきた。こうした症状は、身体的な疾患症状と同じように見てはいけない」(同)とのことで、例えば英国では5人に1人、つまり20%の学童が統合運動症や失読症の傾向があり、それに対応する特殊な教育を受けたいというニーズが存在すると指摘する。
そうした仕組みの解明に向けた同氏の研究チームが2013年にPLoS One(現PLOS ONE)に発表したDHAと学習および行動に関する研究では、長鎖オメガ3脂肪酸の血中濃度と英国の小児の認知能力や行動の低下には関連性が見られたという報告がされている。すでに先行して実施されていた成人による検査では、オメガ3(EPA+DHA)の赤血球に含まれる比率が低いほど、心血管疾患リスクが上昇するという報告がなされているが、この7~9歳の英国の普通の子供たち500名を対象に実施した研究でも、指先から採取した血液から脂肪酸組成を分析した結果、その平均値は高リスク(4%以下)に当てはまる2.46%であったという。親へのアンケート調査として、週にどの程度魚を食べているかを聞いたところ、約90%の子供は週に2回未満で、内9%はまったく食べていなかったという。ちなみに、英国政府が出している食事指針は、週に油分の高い魚2切れを食べるべきとしている。
また、血中DHA濃度と英単語の読み能力を493名を対象に実施した調査では、濃度が高い子供ほど、読み能力が高い傾向にあるほか、器用度や認知能力が高いことが確認されたとも報告されている。
さらに、血中DHA濃度とADHD型の症状との関連性の調査では、濃度が高いと、注意力や行動に関する問題が少ないという相関関係が見られたという。