注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、『水曜日のダウンタウン』(TBS)、『あざとくて何が悪いの?』(テレビ朝日)など、数々のバラエティ番組でナレーターを務める服部潤だ。
各局を股にかけ、その声を耳にしない日はないほどの活躍だが、四半世紀にわたりバラエティを内側から、かつ完成した番組を最初に見続けてきた中で、どのような変化を感じているのか。そして、今や名刺代わりになっているという『水曜日のダウンタウン』において、独特の低いトーンで読むようになった理由とは――。
運命を決めた佐野元春コンサート
――当連載に前回登場した『新しいカギ』『FNS27時間テレビ』のフジテレビ田中良樹さんが『関ジャニ∞クロニクルF』でご一緒されていた服部さんについて、「ナレーターさんはいちばん近くでいちばん客観的に番組を見てる方だと思うんです。いちばん面白い位置で、番組もテレビマンもよく見ていて、潤さんに褒められたらめっちゃうれしいんです(笑)」とおっしゃっており、「『27時間テレビ』の感想を伺っていないので、ぜひ聞いてください(笑)」と言っていました。
ぶっちゃけ良樹が総合演出をやっているのは知らなかったんですけど、面白かったですね。古き良きフジテレビを思い起こさせてくれるみたいな作りだったと思います。言いたいことがあるとすれば、「何で俺を使わなかったんだ」ってことくらいですね(笑)
――本当にバラエティ番組で服部さんの声を聞かない日はないくらいのご活躍ですが、どのような経緯でナレーターになられたのですか?
中学生ぐらいの時に、将来はお芝居の仕事をしたいなとおぼろげながら思い始めたんです。高校の時はバンドを組んでボーカルやってたりして、基本、人を楽しませるのが好きだったんですよ。小学生から父の仕事の関係で転校族だったので、どうしても自分からアピールしていかないと友達ができないじゃないですか。それで、サービス精神みたいなものが身についてしまったのかもしれないですね。
――ただ、最初はホテルマンになられたんですよね。
お芝居は誰でもなれる仕事でもないので、年を重ねていくうちに夢を追っているばかりではダメだなと思って。でもお客さんに楽しんで帰ってもらう仕事ということで接客が好きで、アルバイトもずっと接客をやっていたんですが、その究極がホテルマンだと思って、母の知り合いのつてをお借りして、新宿のセンチュリーハイアット(現・ハイアット リージェンシー東京)に就職したんです。
そこで楽しく仕事していたんですけど、どんどん責任を持たされる立場になってきて、いわゆる接客だけじゃなくて裏のこともやらないといけない。「やりたいことじゃないな…」って思い始めた頃に、友達に誘われて佐野元春さんのコンサートに行ったんですよ。そこで佐野さんが大勢の観衆を一つにまとめ上げている姿を見たときに、「俺やっぱり、ホテルマンのままじゃいけない」と思って。
それから家に帰ったんだけど、興奮してるから寝れないんですよ。それで夜中にテレビをつけたら、TBSの『ドキュメントDD』っていう番組で、ディスクジョッキー事務所の女社長のドキュメンタリーをやってたんです。その女社長は、バイクの後ろに所属のDJを乗せて、J-WAVEからTOKYO FMに送ったりしてたんですけど、DJがブースの中でしゃべってる姿も映っていて、「僕はDJになるんだ!」と思ったんです。
――佐野元春さんを見たその夜に! 運命ですね。
本当に運命なんですよ。それでもう次の日にTBSに電話したんです。
――TBSに?
当時はパソコンもなくて検索もできなかったので、TBSに電話して「昨日の深夜のドキュメンタリーでやってた事務所を教えてください」って問い合わせたら教えてくれてたので速攻で行って、「私もDJになりたいんです!」とお願いしました(笑)。そしたらあの女社長が「うちの養成機関があるから、ホテルマンをやりながら通ってみたらどうですか?」と言ってくれて通い始めたのがスタートですね。そこで、サンディという事務所に所属しました。
――そこからどんな仕事をされていくんのですか?
初めてお金をもらったのは、コンピューターショーでパソコンを紹介するMCだったと思います。そういったイベントのMCとか、渋谷にあったタイトーのゲームセンターにDJブースがあって、そこのお客さんのリクエストを募って曲をかけるなんてこともやってたんですけど、ある時、J-WAVEのオーディションに連れて行っていただいたら、全くうまくできなかったんです。プロデューサーさんに要求されていることをうまく表現できなくて、そこで自分は基本的にアドリブが効かない人だということに気づいたんです。
――そうなんですか!?
それはいまだにそうで、「春を題材にして3分間しゃべって」と言われてフリートークするのも超苦手で。それで、社長に「潤ちゃんはうちではちょっと預かれないかな」って言われちゃったんですよ。
その後日、クリスマスに東京タワーの下のブースでカップルに向けてリクエスト曲を募ってかけてあげたり、メッセージを読んであげたりする仕事があったんですけど、その時に一緒にやっていた女の子のDJがCSRっていうナレーター事務所の所属で、話を聞いているうちにナレーションに興味を持ちだしたんです。性格的に「こっちだ!」と思ったらすぐ行っちゃうんで(笑)、その女の子に社長を紹介してもらって、サンディを辞めてCSRに入りました。
CSRはCMのナレーションの仕事が中心なんですけど、面白がって僕を使ってもらって、たぶん2年で100社ぐらいやったと思いますね。そしたら、たまたまテレビ東京の深夜に『車天国らぶらぶドライブ』っていうテレ東の社員ですら知らない(笑)、新番組を立ち上げる制作会社のプロデューサーが、僕のサンプルCDを聞いてくださって指名してくれたんです。ここで、テレビのナレーションって面白いなあと思ったんですよ。
――どんなところが面白かったのですか?
CMのナレーションはセンテンスが短いんですよ。その中で表現する面白さもあるんですけど、テレビは原稿がいっぱいあるので、その頃の自分は表現力も何もなかったですけど、読むのが楽しくて楽しくて! それで、テレビ番組のナレーターになろうと思ったんですが、そのためにはCSRにいたらダメだと思い、大きい事務所を探して、今の青二プロダクションにお世話になることになりました。