――『SASUKE』のお話を伺っていきたいのですが、緑山スタジオの大仕掛けのセットということで、TBSさんで以前放送されていた『風雲!たけし城』の流れみたいなものがあったのですか?
その流れではなくて、場所が緑山にしかなかったんです(笑)。最初は『筋肉番付』の2時間スペシャルの1コーナーとしてやったのですが、初回は浦安にあった東京ベイNKホールの中でやりました。NKホールでの一番の問題は、失敗して落ちる池が作れないということ。それで1回目の数字がそこそこ良かったので、2回目をやろうとなって、穴を自由に掘れる場所ということで、緑山スタジオの上段広場というところでオープンのセットになったという形です。
――最初の頃と現在を比べると、セットの規模もだいぶ大きくなっていますよね。
プロデューサーに「忍者みたいなセットを作ってほしい」と言われて、忍者は乗り物に乗らないし、飛んだり跳ねたりするようなものだなと思ってセット開発に入ったんですけど、第1回のNKホールは3500万円くらいのセットでした。それから緑山の屋外になると、穴掘ったり、照明のためのタワーも作らなきゃいけなかったり、お金がかかる部分が増えて、理想としていたものよりはだいぶスケールが小さい感じで始まったんですけど、徐々にグレードアップしていって、今はセット代で言うと、最初の倍のお金はかかってますね。
――セットがだんだんアップグレードしていくのは、プレイヤーたちが攻略してくることへの対策が要因としては大きいのですか?
見栄えとは別に、そういう部分がありますね。2000年くらいのときに、山田勝己さんが最初に自作のセットを作ったんですけど、そこから皆さんが苦手なアトラクションのエリアを自作して練習するというのを始めて、今は日本各地にそういう方がいらっしゃって、そこにタレントさんや他のプレイヤーの方が練習しに行くいう環境になったんです。だから、皆さんが作りにくいモーター仕掛けのようなものを取り入れるというのが、自然と始まっていきました。
――プレイヤーたちとの勝負が、そうしたところでもあるわけですね。
前回まであったセットを自作して100回練習したら100回ともできるようになったけど、それに対して緑山の本物のセットがちょっとだけバージョンアップすると、落ちてもらえるように作るという感じですね。
――新しいセットを作るのに、どれくらいの時期から準備されているのですか?
今年の収録で言うと、去年のOA前の12月には、美術さんに「こういうものを作りたい」とお願いしています。毎回収録中は、「これは来年どうするかな…」って考えながら見ているので、その考えが温かいうちに美術さんと話をして、ご提案させていただくというのが多いですね。それで、次の収録の2~3カ月前くらいに業者さんの工場で作ってみたのを動画で送ってもらって見て、「もうちょっとこういうふうにしたほうがいいんじゃないか」といった話をして、実際にセットを組んでテストするのは収録の3~4週くらい前ですね。
――そうやって毎年ブラッシュアップしているんですね。
ちょっとずつですが、何かしらが変わっていく感じです。ドラスティックに変えてしまうと、最初のステージで落ちすぎちゃって、「次のステージは5人だけです」みたいなことになっちゃうと、5時間番組の尺が大変なことになってしまうので、トータルのゲームバランスを今はすごく気にするようになりました。昔は2時間スペシャルだったので、そんなことは無視して「ここで全滅しちゃってもいいや」と思い切って作っていたんですけどね(笑)。今はそういうことができないので、選手たちがどういうセットを作って練習しているのかというのをリサーチして、これくらいだったらクリアできるんじゃないかと考えてセットを作るようになってますね。
■山田勝己の天才さにいろんな人が気づいた
――いろんなプレイヤーがいる中で、先ほど名前が挙がった「ミスターSASUKE」こと山田勝己さんはやはり印象に残ると思うのですが、最初の出会いから強烈でしたか?
山田さんとは『SASUKE』からではなく、『筋肉番付』で3分間腕立て伏せで対決する企画があって、そのオーディションにいらっしゃったときに出会ったんですよ。当時から真っ黒に日焼けして髪の毛オールバックで今とあんまり変わらない感じで、見た目にインパクトがあるので「筋骨隆々のムキムキがきたぞ」と思ってたんですけど、腕立て伏せのやり方がちょっとインチキだったんですよ(笑)。手を広げてひじを曲げた状態であごを動かすというやり方で、担当プロデューサーが「あの人はインチキだから不合格だ」って僕に言ったんです。でも、見た目が面白くてキャラクターがいいので、山田さんに「収録までの間にひじが伸びるスタイルに変えてきてほしい」とお願いしたら、「分かりました」と言ってくれて。あの人はとても繊細で、「雰囲気に飲まれたくないので、どんな会場になってるのかなと思って」と、収録現場に下見に来るような人なんです。それが96年だったんですけど、腕立て伏せも3位という好成績を残して、キャラクターが付いていて実況の古舘(伊知郎)さんも気に入っていたので、翌年に始まる『SASUKE』にも参加してもらったんです。
――最初からスター性を持って参加していたんですね。
でも、こちらから何をお願いしたわけでもなく、山田さんがどんどんのめり込んでいって(笑)。あの人は鉄工所にお勤めでいらっしゃったので、両手両足で両側の壁に突っ張って前に進む「スパイダーウォーク」というエリアをベニヤのパネルで作ったのが、自作セットの最初ですね。そこから、レッカー車を借りて命綱なしで綱登りの練習を始めたりして、徐々に家族が心配するようになっていくようになっていった感じです。
――『SASUKE』ではプレイヤー人たちを追う人間ドラマも描かれていますが、そのきっかけはやはり山田さんだったのですか?
当然、山田さんがきっかけという部分もあるんですけど、フィールドアスレチックを100人やってるのを延々放送して、いろんな落ち方のバリエーションを見せても、さすがに飽きてしまうだろうと思って、どこかに浪花節コーナーみたいなものを出していかないとなかなか難しいぞというのは考えていたんです。そしたら、たまたま山田勝己さんという方が出演されていて、その他にも99年に北海道の元毛ガニ漁師の秋山和彦さんが出られたんです。この方も、山田さんと同じ腕立て伏せ企画のオーディションにいらっしゃって、そのときにご自身から弱視だということを聞いたんですが、そのことは黙っててほしいと言われて、約束したんですね。
その後、『SASUKE』に出場されるようになって、第4回大会で完全制覇したんですよ。そこで、本人に「これまで延べ400人が挑戦して誰もできなかったことを、弱視の君が達成したんだから、これは公表するときなんじゃないか」と話したら、世の中の同じようなご病気の方や、ハンデを抱えている人たちに勇気を与えることもできるはずだということを理解してもらい、その後のスタジオ収録のときに、そのことを公表したこともありました。山田さん以外にも、こういう方がいらっしゃるんだ、こういうストーリーがあるんだというのを、少しずつ織り交ぜていくというのを始めたのが、98~99年以降で、単なるフィールドアスレチックの番組が人間ドラマになっていって、厚みが増していった感じですね。
――山田さんは近年、『水曜日のダウンタウン』でもご活躍されています。
あの人は天才ですから(笑)。僕らが「ここでダメになるんじゃないか?」って思っていたところと全然違うことを始めるような人なので、全然読めなかったんですよね。天才ってある種天然だったりするじゃないですか。彼も狙って面白くしようとしてるわけじゃなくて、全力で言われたとおりにやった結果が『水曜日のダウンタウン』だったりすると思うので、彼の天才さにいろんな人が気づいて、面白がってくれているのはありがたいなという感じです。
――『SASUKE』の外に出ていくことによって、新たなファンを獲得して返ってくるというのもありますよね。
実はマイナス面もあるかなと思ったんですよ。バラエティに出てカラオケ歌ったりして「こんなことしないでいいのに…」と思ったりしたですけど、『水曜日のダウンタウン』で山田さんを見て、こんなに情熱があってもらい泣きできるキャラクターなんだと興味を持って『SASUKE』を見たら、また他のキャラクターを気に入ってくれるなんてもことも結構多いので、ありがたいですよね。
――『SASUKE』のYouTubeチャンネルを立ち上げたことで面が広がり、いろいろなプレイヤーを紹介できるようになったということもありますか?
そうですね。年に1回の特番になると、収録から収録までの間が結構空いてしまうので、YouTubeのロケで「実はあの人とあの人が一緒に練習を始めたんだ」ということを知るのも増えてきて、出場者との関係性が密になりました。番組が始まったばかりの頃は、「最近どうしてます?」ってたまに電話で聞くくらいだったので、「実は離婚したんです」とか「子供が生まれたんです」なんて情報はなかなか教えてもらえないじゃないですか。こうして距離が近くなったのはいいですね。
――それにしても、『SASUKE』のYouTubeチャンネルは、他の番組に比べても再生回数が安定して高いなと思います。海外からの視聴も多いのですか?
海外の方もかなり見てくれているようです。『SASUKE』って海外にマニアがいて、漁師の長野誠さんなんて絶大な支持者から「ミスターナガノ」って呼ばれてるくらいなので、そういう方が長野さんの過去の挑戦をYouTubeで見てくださることも多いみたいです。