重松:阿武野さんは、これからテレビというものとどういうスタンスでお付き合いしていこうと考えているのですか?

阿武野:僕はもともとテレビが好きで好きでしょうがないというテレビ人間です。子どもの頃からテレビのある生活で、22歳からはテレビの中に入り、生業としてきたわけですから、テレビを諦められない。好きなテレビがどんどんダメになっていく流れに抗おうと思って、ドキュメンタリーをいろんな形に変態させてきたということがあるのですが、ここでテレビ局を辞めてみて、今もテレビの中で働く仲間のことを考えてしまうんですよね。テレビ局で働く尊厳とは何か、みたいなものが抜け落ちていくことに対しては、メッセージを発していかなければならないんだろうなと。そういう視線で、僕はおそらくテレビを厳しく観ていくような気がしますね。テレビがダメになってほしくないという希望のもとで。

重松:何か発信するスタンスやポジションは、具体的に見えているのですか?

阿武野:全くないですね(笑)。今は田舎に引っ越しているので、用事のない日は、ずっといろんな作品を観続けようかなと思っています。

重松:引っ越された田舎というのは、岐阜県の東白川村。95年に阿武野さんが監督した映画『村と戦争』(※)の舞台ですよね。

(※)『村と戦争』…909人が戦場に送り込まれ、203人が戦死した岐阜県東白川村で、戦争の記憶を持つ人が生きているうちにと始まった平和祈念館建設を追いながら、村と戦争の関わりを描いた作品。

阿武野:そうです。『村と戦争』に出てくる戦争遺品を集めた平和祈念館が東白川村にあるんですけども、それを教育の中に位置づけるというのが、村のおじいさん、おばあさんたちに託された私のミッションだと思っていて、講演会や映画の上映会、また戦争遺品に関連するエッセイの朗読会といったイベントを、村での活動として一番最初にやりたいと思っています。

 その他にも、いろんな取材をしてきたおかげで、やりたいことがいっぱいあるんです。徳山ダムの取材でミツバチを育てるおじいさんと出会った経験があって、東白川村でミツバチを飼ってみたいと話をしたら「6月にやろうよ」と誘われたり、炭焼きのおじいさんを取材したことがあるんですけど、炭焼きの職人が村には1人もいないんで、「炭焼いてみようよ」という話があったり。面白そうなことを、自分の手と足を使ってやれることを見つけていこうと思っています。

重松:そのときに、カメラは回さないんですか? YouTuberみたいに(笑)

阿武野:回さないですよ、コメディになっちゃう(笑)。でも東白川は、冬はすごく寒いんですけど、夏は抜群にいいです。わが家の横に渓流が流れてホタルが乱舞しますし、天の川も見えますし、夕方4時半くらいには日が陰ってくれるので、快適なんです。

重松:もう完全に“村民”になるんですね。

阿武野:“村人”ですね(笑)。「辞めたらどうするの?」と聞かれたら、「立派な村人になる」というのが第一で、その次が「詩を書きたい」、その次が「高校生からの夢だった童話作家になる」という感じです。

重松:童話作家になったら、厳しく読んであげますよ(笑)

  • 岐阜県東白川村の平和祈念館

ものを作る現場だけはきちんと守ってほしい

重松:ドキュメンタリーの方から、「プロデュースをお願いしたい」とか「作りませんか」と声がかかったら、どうされますか?

阿武野:どうしますかね…。自分のできることは何でもやってみると思います。今までも、どういう仕事も頼まれたら、嫌だと言わないことにしようと、ずっとやってきたので。一緒に悩んでくれる人や汗かいてくる人がいるんだったら、一緒にやるべきだと思っているので、「できるかもしれない」と思って、頼んでくれるのがいい人だと思ったら、やるんじゃないですかね。

重松:東海テレビでは、齊藤(潤一)さんが大学の先生(関西大学社会学部教授)になりましたが、若い学生さんたちに何かを伝える、教えるという仕事も、可能性としてはありますか?

阿武野:時々スポット的に大学にお邪魔することはあるんですが、パワーがいりますよね。週に何時間も継続的にやるとなるにはすごく準備もいるし、学生の持ってるパワーに負けないパワーを出さなきゃいけない。今の状態はもうヨレヨレですから(笑)、1回自分の気持ちを建て直さないと、ちょっと無理だと思います。

重松:たしかに結構体力を使いますからね。僕は53歳から教え始めて、最初の2~3年は授業のある日もうちに帰ってから仕事できたんだけど、もう「今日は何もできない!」ってなっちゃいます。でも、阿武野さんには若い人との接点はどこかで持っていてほしいというのが、僕の個人的な思いですね。若い人たちにテレビ、あるいはドキュメンタリーで何かを作っていくということを知ってほしい。今、一人暮らしの学生さんの中には、テレビを持ってない人が結構多いんですよ。週刊誌を一度も読んだことのない学生さんもたくさんいます。そんな時代に、僕は僕で活字の雑誌ジャーナリズムの面白さを伝えたいと思ってるし、テレビはオワコンとか言われているけど、伝えておくべきものはちゃんと伝えておきたいと思うんです。

阿武野:そうですね。やりがいのある仕事だということは、伝えたいです。人を相手にする仕事というのは、実に面白いと。それに、しち面倒臭いくさいことほど面白いっていうことも伝えたいです(笑)

重松:薬師丸ひろ子さんの歌う「セーラー服と機関銃」に「♪さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」という歌詞がありますし、中国語の「さよなら」も“また会いましょう”の「再見(サイチェン)」なんですよね。だから、『さよならテレビ』の「さよなら」も、“もう1回テレビに出会おう”という意味が込められていると思うんです。そのためにも、東海テレビのドキュメンタリーは、これからも財産になっていくと思うのですが、阿武野さんが去った後の東海テレビの後輩たちにメッセージを残すとすれば、どんなことを伝えたいですか?

阿武野:大変な組織かもしれないけど、そこに腐心するだけじゃなくて、「自分が面白いと思ったことは徹底的にやり尽くせ」と思いますね。そのために捨てるものなんか一つもないし、命が取られることもないんだから、ものを作る現場だけはきちんと守ってほしい。そうすれば、きっと歴史が評価してくれると思います。

重松:阿武野さんがいなくなったことで、その存在の大きさが分かるかもしれないですが、これからも東海テレビのドキュメンタリーと、阿武野さんのご活躍を楽しみにしています。阿武野さんは、東海テレビのドキュメンタリーに対して、一番厳しい視聴者になるか、それとも一番優しい視聴者になりますか?

阿武野:それは作った人によりますね(笑)

  • 1月31日に行われたスタッフ主催の送別会にて

●重松清
1963年、岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入る。91年『ビフォア・ラン』でデビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞を受賞。01年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞した。現代の家族を描くことを大きなテーマとし、話題作を次々に発表。著書は他に、『流星ワゴン』『疾走』『その日のまえに』『きみの友だち』『カシオペアの丘で』『青い鳥』『くちぶえ番長』『せんせい。』『とんび』『ステップ』『かあちゃん』『ポニーテール』『また次の春へ』『赤ヘル1975』『一人っ子同盟』『どんまい』『木曜日の子ども』『ひこばえ』『ハレルヤ!』『おくることば』など。多数。16年から早稲田大学文化構想学部で教鞭を執っている。

●阿武野勝彦
1959年生まれ。静岡県出身。同志社大学文学部卒業後、81年東海テレビ放送に入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作。ディレクター作品に『村と戦争』(95年・放送文化基金賞)、『約束~日本一のダムが奪うもの~』(07年・地方の時代映像祭グランプリ)など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(03年・ギャラクシー大賞)、『裁判長のお弁当』(07年・同大賞)、『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』(08年・日本民間放送連盟賞最優秀賞)など。劇場公開作は『平成ジレンマ』(10年)、『死刑弁護人』(12年)、『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(12年)、『ホームレス理事長 退学球児再生計画』(13年)、『神宮希林』(14年)、『ヤクザと憲法』(15年)、『人生フルーツ』(16年)、『眠る村』(18年)、『さよならテレビ』(19年)、『おかえり ただいま』(20年)、『チョコレートな人々』(23年)、『その鼓動に耳をあてよ』(24年)でプロデューサー、『青空どろぼう』(10年)、『長良川ド根性』(12年)で共同監督。個人賞に日本記者クラブ賞(09年)、芸術選奨文部科学大臣賞(12年)、放送文化基金賞(16年)など、「東海テレビドキュメンタリー劇場」として菊池寛賞(18年)を受賞。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』(21年)。24年1月末で東海テレビを退社した。

  • 『その鼓動に耳をあてよ』
    救急車の年間受け入れ台数1万台という愛知県内随一の名古屋掖済会(えきさいかい)病院のER(救命救急センター)に密着した作品。“断らない救急”をモットーにしながら、新型コロナウイルスのパンデミックでかつてない窮地に立たされたERのありのままを映し出している。東京・ポレポレ東中野ほか全国で順次公開。
    (C)東海テレビ放送