重松:今、複眼であることよりも、単眼で極論のほうが持てはやされがちな風潮を感じるんです。YouTuberが1人で作るドキュメンタリーもこれからどんどん出てくると思いますが、みんなが発信する時代のドキュメンタリーは、どんなふうになっていくと思いますか?
阿武野:分かりやすいとか、つかみのインパクトが重要視されていくんですよね。でも、再生回数とかリアクションの数とか、テレビでいう視聴率みたいなところで、世の中が数字ばかりに追われていくことによって、落としてきたものがいかに多いかというのを、最近よく感じます。
大学に教えに行ったときに、担当の教授に「学生は5分しか映像を観ていられない」と言われたんですけど、60分の番組をそのまま観てもらうことにしたんですが、ほとんどの学生がきちんと感想をくれたんですよ。つまり、面白いものであれば60分でも観ていられるし、つまらないものは5分でも耐えられないという、ただそれだけのことだと思いました。だから、発信する側の人間が「今の子はこうだから」と思い込んで、そこに合わせて行くみたいなことはしないで、作りたいように作り、自由に表現して、その中で取捨選択してもらえばいいような気がします。
重松:配信コンテンツだと、スマホで観られる可能性があるわけじゃないですか。ドキュメンタリーにとって、スマホのサイズ感というのが、発想を変えてしまうような気がするのですが。
阿武野:そうですね。スマホでは、映像のディテールまで見ることができないのですよね。しゃべってる口がちょっとピリピリ引きつっているとか、笑顔なのに瞳が輝いていないとか、テレビサイズだと受け取れるものが受け取れないコミュニケーションの形になるのは、制作者としては怖いことですし、そういう観方をされるのは嫌ですよね。
重松:でも、スマホで観られたときにどこまで通じるのかというのを考えて、ナレーションやテロップでフォローするということに関しては、禁欲的ですよね。
阿武野:そうですね。どう感じてもらえるか、どう考えてもらえるか“余白”を残すことが一番大事なことだと思うんです。私の求めているコミュニケーションは、想像力を喚起できるものなんです。ドキュメンタリーをやり始めた頃に、このジャンルが世の中で嫌がられていると思いました。「ドキュメンタリーって、社会的弱者を扱って、出てくるのはみんな良い人で、最後は無理矢理にでも感動的なお話にして、音楽で煽って終わりみたいな感じでしょ?」と言われて。安直な定型みたいなものを見抜かれていて、ドキュメンタリーが時代遅れになっていると思いました。
そういう経験があったので、説明みたいなものはなるべく省き、“想像の翼をいくらでも広げていただけるんですよ”と映像を差し出すように、コミュニケーションがしたい。そのほうが、豊かなキャッチボールができるんじゃないかと思って、字幕は極力つけないし、音楽もなるべくつけない、ナレーションも省いたり、「呪文のように唱える」ナレーションの使い方など、ちょっと冒険をしました。
重松:その豊かなキャッチボールの放り方というのは、映画館で観てくれるお客さんに対するものと、テレビで観る視聴者に対するもので違いはありますか?
阿武野:ありませんね。よくテレビは分かりやすく作らないといけないと言われますが、私は視聴者のほうがよっぽど感度が高いのだから、啓蒙的な発想でいるテレビマンが嫌いです。それに、「夕方のニュースはご飯を作りながら片手間で観てる主婦が多いから、テロップがいる」なんて言うニュースデスクには、「そういう人のために作ってない」と言うことにしていました(笑)。“キャッチャーミットに目がけて投げるけど、捕れるかどうかは分からないよ?”という感じが好きなんですよね。
重松:一方で受け手からすると、映画館に行くのは戸塚ヨットスクールの校長に会いに行くんだけど、テレビは戸塚さんが僕たちの日常と地続きになってやってくるんですよ。この日常に入ってきたときに、いつもゾクッとする感じになるんです。もう20年以上前のことですが、森達也さんと『A2』(※)について対談するにあたって試写用のDVDを家で観るんですけど、小学生の娘が騒いでたり、外で救急車が通ったりする中で、荒木(浩)さんが話してるのをずっと観ている。そんな観られ方は森監督は望んでないかもしれないけど、結果的に“日常生活の中に入ってくる非日常”という観方は、映画館とはまた別の楽しみ方でもあるのかなと思います。
(※)『A2』…オウム真理教(現・アレフ)の荒木広報副部長を中心に密着し、オウム事件の本質に迫った森達也監督のドキュメンタリー『A』の第2弾。
阿武野:日常の中で観せられちゃうというのは、面白いですよね。テレビって“びっくり箱”だと思うんです。「つけっぱなしにしてたら、よく分かんないけどずっと観入ってしまった」という感じで観てくれる人がいるのがテレビだと思うので、ドキュメンタリーとそういう出会い方をしてほしい。まさに求めていることですね。
重松:出会い頭に衝突したことで発見するものってありますよね。テレビには地上波と別にCSというのもあって、ここはしっかり観に行くチャンネルだから地上波と映画館の真ん中ぐらいのメディアだと思うんですよ。そのCSである日本映画専門チャンネルで、東海テレビのドキュメンタリー特集というのをやっていますが、そこでのリアクションはいかがですか?
阿武野:なぜCSでの放送をしたいと思ったかというと、東海テレビでの放送は1回か2回で、しかもローカルで終わってしまう。もっとたくさんの人に観てほしいと思っているので、映画という形で出してみる。だけど、ミニシアターは全国で2万人観客が入ればヒットという世界で、どこの街にもシアターがあるわけではない。多くの人たちが触れる機会を考えたときに、日本映画専門チャンネルに出すということだったんです。
ここでうれしかったのは、加入動機のレスポンスが「岡田准一特集」より多かったというのを聞いて、私たちのドキュメンタリーを積極的に観てくれる人たちがいるということの証しだと思いましたね。『その鼓動に耳をあてよ』の公開に合わせてまた特集してくれて、新作映画の告知もしてくれるので、うれしい関係ができています。
重松:それも、15本の積み重ねがあるからこそできるんですよね。小説に文学史があるように、ドキュメンタリー史があってもいいと思うんです。前の作品を観た上で新しい作品を観ると、その背景も思い浮かべるから見え方が変わってくる。例えば、『さよならテレビ』を観た後に『ヤクザと憲法』を観ると、ヤクザ相手にも事前の試写を許さなかったのに、東海テレビの社内では事前にチェックされちゃうんだ、とびっくりしたり(笑)。だから特集放送や特集上映に向いてますよね。
阿武野:ヤクザより身内のほうが怖い…(笑)
地上波テレビにジャーナリズムは存在していたのか
阿武野:私は43年地上波ローカルで仕事をしてきましたが、ずいぶん紆余曲折したなと思うんです。重松さんは、地上波のテレビはこれからどうなっていくと思っていますか?
重松:申し訳ないけど僕、地上波はほとんど観なくなっちゃったんです。バラエティの面白さを突き詰めるんだったらYouTubeにもいっぱいあるし、全体的に僕たち視聴者のことを低く見て、言葉は悪いけど、ナメて番組をつくってる気がするんですよね。もちろん、そうじゃない番組もたくさんありますが。ドラマも今はNetflixでやってる韓国のドラマのほうが面白い。NHKのBSは面白いんですけど、1チャンネル減っちゃったのがショックで。
僕の大学の教え子に民放キー局に入った人がいるんですけど、番組じゃなくてイベントをやりたいと言うんです。もしかしたら、テレビ局がテレビの好きな人ばかりではなくなっているのかもしれない。そうなると、やっぱりしんどいんじゃないかなと思いますね。東海テレビでの実感として、阿武野さんはいかがですか?
阿武野:経済的にはかなり縮小してきてますね。その中で何とかしなきゃいけないというときに、“何とか”が「番組をちゃんと作らなきゃ」っていう方向に行けば、まだやっていけるような気がするんですけど、そうなっていない。他のところでお金を稼ごうと考えがちで、番組に作る費用を削ってまで、新規事業という他のところに予算を持っていこうとする。原点は何かです。テレビの経営者のテレビ番組に対する熱量がどんどん下がっている。その程度の熱量の番組など、観る人が減ります。そこに広告を出す意味をスポンサーが持てなくなる、と。経営は、原点を忘れて迷走してるところですよね。
特に地方局は、これから4局あった地域が3局になったり2局になっていくかもしれない。そうなっても、誰も何も困らないっていうというのが恐ろしいですよね。多様なものが観られたはずなのに、「多様なものなんて、今のテレビにはない」と言われると、非常にまずいなと思います。それと、ジャーナリズムが相当抜け落ちている気がするんです。地上波のテレビにジャーナリズムが、もともと存在していたのか、ということを今ちょっと考えてます。もともとなかったのかもしれないし、作ろうと思ったけど、お金に紛れて、あるいは権力の前に屈服していったんじゃないかというような気がして。
重松:テレビの強みって“今”だったと思うんですよ。つまり、生放送のスポーツとニュース。しかし、スポーツは放映権料が上がってしまって消えていき、ニュースも阿武野さんがおっしゃった状況にあるし、“今”を追いかけるにも配信にかなわなくなってきてる。そしたら、『人生フルーツ』(※)の津端夫妻が言っていた“時をためる”じゃないですが、“ためる”という方向に変えていかなければならないんじゃないかと思います。報道も時間をかけて厚みのある取材をしていく。そこに、スポンサーや経営の論理がどこまで立ちはだかるのかという問題もありますけどね。
(※)『人生フルーツ』…50年前に植えた小さな苗木から成長した雑木林に囲まれた30畳一間、平屋建ての杉の丸太小屋で生活する建築家の津端修一さん(90、当時)と妻の英子さん(87、同)の暮らしを追った作品。