■戦後開業の神奈川臨海鉄道、設立の経緯は
横浜・川崎エリアの貨物線は戦後も拡張が続く。今年4月に全線開通50周年を迎えたJR根岸線は、本来は根岸湾の埋立てによって造成された工業地帯の貨物輸送を主目的として建設された(実際は通勤輸送が主となった)。根岸線開通にともない、高島線は桜木町駅で根岸線と接続。現在も根岸の製油所で精製された石油製品を運ぶ石油タンク列車などが、根岸線から高島線へ乗り入れている。
また、戦後に新しく開業した貨物鉄道会社もある。川崎市臨海部および横浜市本牧エリアの貨物輸送を担う神奈川臨海鉄道(1963年6月設立)である。同社の開業には、次のような経緯があった。
戦後の川崎市臨海部における工業地帯の貨物輸送は、京急大師線および川崎市電の線路を3線軌条化し、国鉄の貨物列車が浜川崎駅から乗り入れることで対応していた。これについては、本誌記事「川崎市電の歴史と廃線跡を探る - 大師線と接続、3線軌条も存在した」でも紹介している。
しかし、昭和30年代になると、3線軌条の変則的な輸送方法では貨物輸送量の増加に対応しきれなくなり、また浜川崎駅も手狭で貨物処理能力の限界を超えていたことから、1964(昭和39)年3月、新たに塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業。そして、浜川崎駅と塩浜操駅の間を国鉄の新しい貨物支線でつなぎ、さらに塩浜操駅と水江・千鳥・浮島の各臨海エリアにある工場・埠頭との間を神奈川臨海鉄道の貨物線で結ぶ輸送体系がつくり上げられたのである。
神奈川臨海鉄道は、横浜港に本牧埠頭が造成されると、1969(昭和44)年10月に本牧線(根岸~横浜本牧~本牧埠頭間)を開業し、横浜にも進出。こうした経緯で、神奈川臨海鉄道は川崎エリア(浮島線・千鳥線・水江線)と横浜エリア(本牧線)で4路線を運営していたが、2017(平成29)年9月に水江線が廃止された。
水江線はかつて、造船・セメント・鉄鋼・石油などの各企業の引込線と結ばれ、大量の貨物を運んだ。とくに国鉄の奥多摩駅および東武大叶線(1986年廃止)の大叶駅から輸送する日本鋼管(現・JFEスチール)向けの鉄鋼の副原料となる石灰石輸送は華々しかったが、1988(昭和63)年3月に石灰石輸送が廃止。以後は荷主がなくなり、保守用機関車が1日1往復するのみとなっていた。
この水江線の廃線跡を見ながら歩くには、JR川崎駅から川崎市営バスの「川10系統」水江町行を利用するのがおすすめだ。この路線はかつての市営トロリーバスと同じ経路を走っている。途中、池上町バス停を過ぎたあたりから、車窓左手の道路脇に水江線の廃線跡が現れる。
水江線の廃線跡敷地は道路拡幅用地となっており、いずれ道路の一部となってしまうので、見学するならいまのうちだろう。なお、川崎貨物駅付近の一部区間には、いまなおレールや信号機などがそのまま残されている。
さて、今回は神奈川県横浜・川崎エリアの貨物線廃線跡を歩いた。最盛期に多くの貨物列車が行き交っていた貨物支線の多くは、ひっそりとその姿を消していった。だがここに来て、鉄道による貨物輸送復活の兆しがある。CO2排出削減の世界的な潮流であるカーボンニュートラルの動きや、トラックドライバーの時間外労働時間の上限が年960時間に制限される「物流の2024年問題」などから、物流業界でトラック輸送から鉄道・船舶輸送にシフトする動きが出てきているのだ。
ただし、こうした動きを手放しでは喜べない事情もある。近年、激甚化している自然災害により、貨物列車の主要線区が長期間不通になる問題などへの対応が迫られており、トラック・船舶による代替輸送をいかにスムーズに行えるかが課題となっている。結局のところ、陸海空の各輸送モードが互いの弱点を補うことで共存していく「モーダルコンビネーション」の考え方を推し進めていく以外に、こうした問題を克服する道はないであろう。