我が国における鉄道貨物輸送は、新橋~横浜(現・桜木町)間で旅客輸送が始まった翌年、1873(明治6)年9月15日に旅客と同じ新橋~横浜間で貨物列車が走ったのが始まりである。今年は「貨物鉄道輸送150年」の記念すべき年にあたる。
その後、神奈川県の横浜・川崎エリアでは、横浜港・川崎港の貨物量増加、臨海工業地帯の発展などにともない、貨物線が著しく発展。埠頭や工場をつなぐ専用線まで含めると、数えきれないほどの路線が敷設された。しかし、モータリゼーションが伸展し、トラック輸送が台頭すると、1970(昭和45)年頃をピークに鉄道の貨物輸送は斜陽化。数多くの貨物線が姿を消していった。
今回は、横浜・川崎エリアに存在する貨物線の廃線跡を探索する。
■最古の貨物線「税関線」跡を行く
神奈川県内で最も古い時代につくられた貨物線として、通称「税関線」と呼ばれた貨物線がある。いち早く国際貿易港として開かれた横浜港は、貿易の伸展とともに拡張が必要とされ、1899(明治32)年に新港埠頭の埋立て・造成が開始された。新港埠頭とは、現在の赤レンガ倉庫や横浜ワールドポーターズなど、多くの観光客が訪れている人工島である。
「税関線」は1911(明治44)年に開通し、桜木町駅(初代・横浜駅)と新港埠頭の横浜港(よこはまみなと)駅を結んでいたが、1987(昭和62)年に廃止された。廃線跡は現在、「汽車道」と呼ばれる遊歩道として整備されている。桜木町駅前から、この汽車道を歩いてみよう。
まずは桜木町駅の海側に降り立つ。いまとなっては信じられないが、かつてこの駅前広場一帯は、東横浜駅という貨物駅だった。東横浜駅は1915(大正4)年に桜木町駅から貨物取扱設備を分離して開設され、その後は長きにわたって横浜港における貨物取扱拠点のひとつとして機能した。1979(昭和54)年に廃止(信号場に降格)され、現在は広場の片隅に東横浜駅の記念碑が建っている。
「税関線」はこの東横浜駅から北上し、2つの小さな人工島(築堤)に架けられた3つの橋を介して新港埠頭へと進んでいた(現在の汽車道)。3つの橋のうち、桜木町駅側の2つの橋(港一号橋梁、港二号橋梁)は、「税関線」開通時に鉄道院によって架橋されたアメリカン・ブリッジ社製のトラス橋である。埠頭側の橋(港三号橋梁)のみ、汽車道として整備する際、旧・大岡川橋梁の一部(さらにその前は北海道の夕張川橋梁だった)をここへ転用したものだという。
新港埠頭内の赤レンガパークには、かつての横浜港駅のプラットホームが復元・保存されている。同駅は横浜港荷扱所に由来し、戦前・戦後の盛時には海外渡航者向けの旅客列車「ボート・トレイン」(東京~横浜港間)が発着するなど、旅客駅としても機能していた。
「税関線」の線路は、島の南東端で新港橋梁(この橋は英国のトラス橋を模した日本製)を渡った先、本土側の横浜税関構内まで延びていたが、じつはその先の山下埠頭方面へも貨物線が続いていた。山下埠頭開業後の1965(昭和40)年に開業した山下臨港線(山下埠頭線)である。
同線は1986(昭和61)年に廃止され、その廃線跡は現在、高架構造を生かした遊歩道「山下臨港線プロムナード」として供用されている。
ただし、途中の山下公園内の高架橋は2000(平成12)年までに撤去されたため、高架は公園の手前で途切れている。山下臨港線の痕跡がどこかに残っていないか探すと、山下公園のさらに先、埠頭の入口部分の道路を横切るように、レールがわずかに残っていた。