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チームライティングの導入には、脚本家の育成という狙いも。新人脚本家の登竜門として、老舗の「フジテレビヤングシナリオ大賞」、「テレビ朝日新人シナリオ大賞」に加え、「TBS NEXT WRITERS CHALLENGE」(「TBS 連ドラ・シナリオ大賞」から刷新)、「日テレ シナリオライターコンテスト」が今年新たに誕生したが、その背景には、連ドラ枠の増加や配信ドラマの隆盛など、脚本家の需要が大きく伸びていることがある。

この現状を、「チャンスはチャンスだと思うんですけど、ちょっと裏を返せば経験値のない人にどんどん書かせてしまい、粗製乱造のようなことになってしまわないかという不安があるんです。今、毎クール40本くらいドラマがあるんですが、全部面白いものにしないと『日本のドラマ、全然ダメじゃん』ということになりかねない。本当に実力のある脚本家は40人もいないので、取り合いになってしまうんですよね」と捉えているが、チームライティングでは、1人あたりの負担が少なく、山田氏や金沢氏など経験と実力のあるショーランナー(統括役)のもとで執筆するため、若手の育成にはもってこいの環境と言えそうだ。

さらに、「駆け出しの頃は自分で営業したり、報酬を交渉したりしないといけないので、gがその代理人としての役割を果たせればと思いますし、どんどん成長して新たなショーランナーになっていくという循環を作りたいですね」と目標を掲げる。

新人発掘については、脚本家のネットワークなどから将来性のある人を紹介してもらうことを想定しており、「日芸(日本大学芸術学部)の映画学科で講師をされている金子ありささんに『学生さんでいい人いたら教えて』とお願いしたりしています」とのことだ。

フジテレビでの研修時代からの付き合いだという石原隆氏は、重松氏にとって“師匠”の存在。「自分で脚本を書けるプロデューサーはたくさんいると思いますが、石原さんには『その右腕をつかんででも、脚本家に書かせないとダメだ』と言われました。それは育てるという意味でもそうですし、石原さんはやっぱりすごいプロデューサーで、それぞれの役割の人の能力を引き出すのがすごくうまいんです。だから僕はいつも悩んだときに、“石原さんだったらどうするだろうな…”と考えるんです」と、その教えを継承していく。

■テレビ局が挽回するための視点は「グローバル」

8月に業務を開始し、早速テレビ局からオファーを受けているそうで、「一番早いところで、来年の1月クールか4月クールでできればいいなと思っています」と順調に見えるが、「今本当に枠が増えて、よく『いいときに独立しましたね』と言っていただくんですけど、チャンスだけどピンチだと思ってるんです。ここで面白くないものをどんどん作ってしまうほうがピンチだと思うので、本当に気を引き締めていいものを作るチームにしなきゃいけないという思いが強いです」と力説する。

現状は、山田氏や金沢氏に来たオファーにチームライティング制を提案する形で企画が進められているが、「いずれは、“gに頼めばいいものができる”と信頼されるブランドにしていきたいと思っています」と構想。メンバーとなる脚本家に多様性があれば、その分受けられるジャンルも幅広くなるというメリットもありそうだ。

社名の「g」はgravity(重力)の頭文字をとったもので、才能に惹かれ合うクリエイターが引き寄せられる場になるという意味が込められている。現在のメンバーは脚本家に限られているが、監督、カメラマン、プロデューサーなども参加する「総合映像制作集団」に拡大したい考えで、「今はテレビ局や映画会社やOTT(動画配信サービス)などの媒体から『こんな企画をやりませんか?』とオファーされる形ですが、自分たちで企画を作ってスタッフもそろえて、こちらから媒体に『こんなことやりませんか?』と提案する状態にしたいと思っています」と将来像を語る。

また、古巣のテレビ局を案じ、「どうしても地上波が斜陽的に思われる中で、それを挽回する視点はやっぱり“グローバル”なんですよね。世界に打って出るというのを考えるとワクワクするじゃないですか。そういう土壌を作って憧れられないと、いいクリエイターも生まれない。地上波ってとても価値のある媒体なので、うまく流れに乗せることができれば、また憧れる業界になると思います」と強調した。

●重松圭一
1966年生まれ、奈良県出身。慶應義塾大学卒業後、90年に関西テレビ放送入社。営業局を経て、03年の『僕の生きる道』を皮切りに、『僕シリーズ』のほか、『がんばっていきまっしょい』『ブスの瞳に恋してる』などのドラマ、『福山エンヂニヤリング』『SMAP×SMAP』などのバラエティ、『阪急電車 片道15分の奇跡』などの映画でプロデューサーを務める。映画事業部長、東京制作部長、東京支社長などを歴任し、23年7月末で同局を退社。映像制作集団「g」を設立した。