YouTube・サブスク動画配信サービスの台頭、視聴率指標の多様化、見逃し配信の定着、同時配信の開始、コロナ禍での制作体制――テレビを取り巻く環境が大きく変化する中、最前線にいる業界の“中の人”が語り合う連載【令和テレビ談義】。
第7弾は、フジテレビを退社して映像プロダクション・MOOOVEを設立したマイアミ啓太氏と、テレビディレクターから転身して一般人や有名人にインタビューしていくYouTubeチャンネル『街録ch~あなたの人生、教えて下さい~』を立ち上げた三谷三四郎氏というテレビの世界を飛び出した2人が登場。この2人とともに番組制作した経験を持ち、『新しいカギ』などを手がけるフジテレビの木月洋介氏をモデレーターに、全4回シリーズのテレビ談義をお届けする。
第1回は、『街録ch』の独特のスタイルが生まれた背景について。そこには、テレビ番組の制作で培ったノウハウや、逆に反面教師として築き上げたものがあった――。
■実は同期のマイアミ氏&三谷氏
木月:不思議な縁で、実はこの2人は同期なんですよ。もともと同じ「(笑って)いいとも班」だったじゃないですか。だからお互い会ったことがあると思ってたんですけど…
三谷:顔は見たことありますけど、だぶん僕が『いいとも』に派遣されたとき、マイアミさんはもう『いいとも』から『もしもツアーズ』に異動されてたんじゃないですかね。
マイアミ:そうですね。同じ班にいて三谷さんのことは見てましたけど、直接話したことはないですもんね。
木月:だから2人がしゃべってるのを見てみたくて、今日はお呼びいたしました(笑)。マイアミさんはある日、会社で深夜4時くらいにフラフラしてるところを見つけたんですよ。
マイアミ:そうですね(笑)。あの日はクラブに行けなくて、やることもなくてフラフラしてたら木月さんがいて、「おっ、木月さんだ!」みたいな感じで驚いたら、「お前、何してるんだよ」って言われて。
木月:それが2012年で、『いいとも月曜日』と『いいとも27時間テレビ』があって、『うもれびと』『がんばった大賞』があって、『キスマイBUSAIKU!?』や『AKB総選挙』が始まるというんでめちゃくちゃ僕の演出番組が増えるときで、チーフADが足りなくて途方に暮れてたんですよ。そしたらマイアミさんが夜中に歩いてて「暇です」って言うから「やる?」って聞いたら「やります!」って。それで、『キスマイBUSAIKU!?』と『AKB総選挙』をチーフADとしてドサッとやってもらうことになって、死にそうになってたけど(笑)
マイアミ:でも、それで本当に木月さんに拾っていただいたんですよ。あのときは楽しかったですね。
木月:そこからすぐディレクターになったんですよ。
三谷:僕が存在を認識していた頃はもうディレクターさんでした。僕はAD4年目くらいに『いいとも』に派遣されて、最終回までの2年やらせてもらいました。
木月:うちの曜日も一時期やってくれたしね。
三谷:そうですね、ご迷惑をおかけしたと思います(笑)
■『いいとも』担当と言われて「終わった」
木月:覚えているか分かんないけど、三谷さんは当時「(放送)作家になりたい」って言ってたんですよ。
三谷:あー、そうですね! テレビ業界を目指したのは、バラエティが好きなんですけど、芸人になる勇気はないし、放送作家もなり方が分かんないからADになったという感じなんですよ。最初3年くらいはテレビ朝日映像というドキュメンタリーとか『ワイド!スクランブル』(テレビ朝日)とか情報番組を作っていた制作会社に派遣されて、その後やっとバラエティができることになったんですけど、担当番組が『いいとも』と言われたときに「終わった」と思ったんです。
木月:そうだったの!?
三谷:それまでの3年で、編集のやり方とか鍛えておけばバラエティでも役に立つかなと思いながら、仕事が終わったら他の人の作業を勝手にやったりしてコツコツ頑張ってきたんですけど、『いいとも』と言われた瞬間に、唯一自分の武器である編集のない生放送の番組に行くんだと思って(笑)
木月:なるほど、それまでの蓄積が生かされない場所だったんですね(笑)
三谷:しかも、派遣元の人も「頑張って探してきました!」みたいなトーンだったから、「やりたくないです」なんて言えなくて…
(一同笑い)
三谷:自分がADを頑張って何とか認められてディレクターになるというのが不可能だと思ってたから、奇跡的に作家さんのほうがチャンスがあるのかなあと思ってたんですよ。純粋に放送作家になりたいということじゃなかったんです(笑)
木月:そうそう、そんな感じだった(笑)
三谷:でも、今思うとすごい大変な現場で、あそこほど忍耐力が鍛えられる場所もなかったと思いますね。だから2年で終わってよかったです。もっと続いてたら、リアルに東北とかに逃亡してたと思います(笑)