――実際に東京オリンピック代表にも選出されましたが、大会を4位で終えて川崎へ戻ってきた8月以降で、明らかにパフォーマンスが変わったように見えました。
東京オリンピックを経験して勝つことの重要性をあらためて痛感しましたし、あとは夏に(三笘)薫と(田中)碧が移籍しましたよね。チームとしては大打撃だったかもしれないですけど、自分にとっては成長するきっかけを作ってくれたというか。どこかあの2人に任せていた部分もあった中でいなくなって、自分だけがオリンピックからチームへ帰ってきて、ここからは自分が引っ張っていかなければいけないんだ、という思いになった。やはりそこが一番大きかったと思います。
――東京オリンピック後のアビスパ福岡戦で、今シーズンの初黒星を喫しています。2位の横浜F・マリノスに猛追された8月下旬が、一番苦しかった時期なのでしょうか。
あの時もそうですけど、9月に入ってすぐにYBCルヴァンカップ、ACLとわずか2週間で2つのタイトルを失った時が一番苦しかったんじゃないかと。僕自身は怪我でルヴァンカップにもACLにも出られなかったので、ものすごく不甲斐なかったというか。たらればの話になってしまいますけど、もし自分がルヴァンカップやACLでプレーできていたら、と思ってしまうこともあった。あの時期は個人としてもチームとしても、本当に苦しい時期だったと今でも思っています。
――ただ、ACLを戦った韓国から帰国した直後から、川崎の勝ち方が変わってきました。昨シーズンから今シーズンの前半にかけての攻守両面で相手を圧倒する勝ち方から、しぶとく、執念をむき出しにして最後に逆転する勝ち方が増えました。
それこそACL後の5連戦へ臨む前に、オニさん(鬼木達監督)が「この5連戦が優勝を争う上で一番重要だ」と話をされた時に、僕自身も「ここでひとつでも落とせば本当に苦しくなる」と感じました。チームとして特に戦い方が変わったというわけではなくて、試合を重ねるごとに団結力というか、耐え抜く力であるとか、チームとしての総合力というものがすごく強くなった、という思いがありましたね。
――王者として「簡単に負けてなるものか」というがむしゃらさも。
優勝したチームは次のシーズンに、ユニフォームの左袖に金色のJマークを付けるんですね。それを付けられるチームはそのシーズンに1チームだけだし、僕はそのJマークにものすごくプライドを持っていました。みんながどのように思っていたのかは分からないけど、僕自身は「ここで負けてたまるか」という思いを常に強く持っていました。
――そうした思いの積み重ねが、優勝を決めた浦和レッズ戦後の号泣になったと。
あれはけっこういじられましたね。ただ、結果だけを見ると圧倒的だったかもしれないけど、一戦一戦で苦しい時間が多かったと僕たちは感じていたし、シーズンを通しても耐えなければいけない時期が長かった。それらを乗り越えて優勝した時にみんなが喜んでいる姿を見て、この1年間頑張ってきて本当によかったなと思えて。それが自然とああいう姿になったという感じですね。僕は感情を表に出すタイプですけど、それでも人前で泣いたことがほとんどなかったので。ああなったのは初めてでした。
――三笘選手や田中選手からもSNS上でいじられていました。
2人からも「泣きすぎ」といじられました。実際には返信していませんけど、心の中では「お前らがおらんようになったから苦しいねん」とつぶやいていました(笑)。
――その2人から東京五輪、そして11月に再会した日本代表で得る刺激は。
一緒にやっていたからこそ、特に大学から一緒にやってきた薫の活躍は僕の刺激になってきたので。あいつが頑張っているから僕も頑張ろうとなりますし、それはお互いにそういう気持ちにはなっているのかなと思います。