日産自動車がスポーツカー「フェアレディZ」のプロトタイプを発表した。経営状況が厳しいこの時期に注目モデルのプロトタイプを公開した理由とは何か。同じく日産のスポーツカーである「GT-R」との立ち位置の違いは。半世紀にわたる歴史を振り返りながら解説していこう。
「Z」のルーツは1952年にあり
フェアレディZ(以下、Z)の新型が近く登場することは、日産が2020年5月に開催した2019年度決算発表会で明らかになっていた。
この会見で日産は、2020~2023年度を対象とする事業構造改革計画を発表。これからはグローバルで競争力を発揮できるカテゴリーとして、C/Dセグメント、EV(電気自動車)、スポーツモデルにリソースを集中し、今後18カ月の間に12車種を発売すると断言した。発表会の最後には「NISSAN NEXT A-Z」という動画で12車種をアルファベット順にチラ見せしたのだが、「A」はEVの「アリア」で、トリを飾ったのがZだったのだ。
この時点で、Zが近くモデルチェンジすることは分かっていた。でも、そのプロトタイプがこんなに早く発表されるとは思わなかった。経営状況を心配する声も聞かれる中で、日産が新しいZを公開したのはなぜか。それは、このクルマが同社にとって大切な存在であるだけでなく、今後の方向性を明確に示す存在だからなのではないだろうか。
Zの初代は1969年に誕生しており、これだけで半世紀以上のヒストリーを持つのだが、車名に「Z」のつかないフェアレディやさらに前の世代を含めれば、その歴史はさらに10年以上も長くなる。
日産初のスポーツカーは1952年発表の「ダットサンスポーツDC-3」だ。このクルマは、国産車として初めての本格的スポーツカーでもある。これが6年後のモデルチェンジで「ダットサンスポーツ1000」になると、2年後のマイナーチェンジで「フェアレデー1200」(当時の表記はこうだった)という名前が与えられたのだ。
この車名は、当時の日産社長が渡米した際、ブロードウェーでミュージカル「マイ・フェア・レディ」を観劇し、感銘を受けたことから名づけられたという。その頃の日本にはまだ、スポーツカーに対する理解がなかったため、フェアレデーは多くが北米に輸出された。
1962年にはダットサンスポーツとして2度目のモデルチェンジを行い、「フェアレディ1500」になった。3年後には、排気量を拡大して「フェアレディ1600」に発展。1967年には2リッターエンジンを積んで国産初の200㎞/hオーバーを実現した「フェアレディ2000」が加わった。
ここまでのフェアレディは一貫してオープンカーだった。第2次世界大戦後の米国では、欧州から帰国した軍人が英国のMGやトライアンフを持ち帰ったことがきっかけとなり、オープンスポーツカーのブームが起きていたからだ。