――お二人は、結成初期の頃はコントがメインで、途中から漫才中心に変えていったんですよね?
藤田:コントをやっていたのは初期の3年くらい、2000年までですね。
大村:2001年から『M-1グランプリ』が始まったんです。その頃はまだ漫才1本ではなく、2002年くらいまではコントも少しやっていましたが、それ以降はまったくやらなくなりましたね。
――漫才に絞った理由と、お二人が感じている漫才の魅力を教えてください。
藤田:最初のきっかけは、楽だったからだよね? コントだと小道具や衣装を持っていかないといけなかったけど、当時漫才は私服でやっていたのでめちゃくちゃ楽だったんですよ。
大村:聞こえが悪いな(笑)。漫才のほうが魅力があったというのが正直な話ですね。漫才は、素の俺と藤田で笑わせられる。もちろんキャラに入って笑いをとるコントもすごいんですけど、素の自分たちでできるというのが新鮮だったんです。コントしかやってなかった分、同じウケでも漫才のほうが気持ちいいなって。あと、コント師は衣装や小道具を用意しておくので当日ネタを変えられず、このお客さんにはこのネタじゃなかったっていうのがよくあるんですけど、漫才はすぐにネタを変えられるという手軽さもいいなと思いました。
藤田:ただ、今はスーツで漫才をやっているので、スーツを持っていくのは面倒ですけどね。
大村:楽な方で選ぶな(笑)。でも、コント時代に藤田が小道具を持っていた時期があって、「手の長い転校生」のコントで使う腕の棒を車で運んでいるときに、警察に職質されたことがあったんですよ。
藤田:もちろん何も問題ないから「調べてください」って言って、「トランク開けてください」って言われて暗がりでトランク開けたら腕の棒が出ていて、警察官に「ちょっと!」ってバラバラ殺人犯だと思われたんですよ。それで、「これはネタで使うんです」って説明して、「やって見せて」って言われたので警察官の前で披露したっていう…(笑)。
大村:そんなこともありながら(笑)、漫才の魅力に気付いて漫才にシフトした感じですね。
――職質は藤田さん災難でしたね(笑)。その後、M-1に挑戦し続け、出場資格がなくなったときに目標を見失った時期があったとか?
藤田:M-1優勝のためだけにやっていたのに目標がなくなってしまい、ツアーも続けていましたが、何のためにやっているのっていうことにはなりましたね。
大村:その気持ちもわかりましたけど、別にコンテストのためにお笑いやっているわけじゃないじゃんって。お客さんを笑わせたいというか、全国に行っていろんな人を笑わせたいっていうのが原点だろって。
藤田:原点はね。でも、M-1のためにやっていたというのは大村も同じで、そこから大村はすぐ切り替えられたけど、俺は切り替えられなくて燃え尽き症候群になって、なんでツアーやるんだろうって。
――藤田さんはそこからどう切り替えていったんですか?
藤田:徐々に徐々にですね。世の中も変わっていって、M-1も1回なくなったりして、でもネタはずっとやっていかなきゃいけないという気持ちになって、コンテストのためだけにやるのではなくお客さんのためにやっていくんだなって。地方に行くとすごい喜んでくれるんですよ。「東京・大阪は行けないけど地方まで来てくれたから楽しめた」って言ってくれて、日本人の心に触れる感じがあるんです。
大村:あと、僕がネタを考えて、僕がイタズラを勝手に仕掛けて編集してっていう感じなので、自分でやっている感がなかったってよく言っていました。
藤田:9割くらい作られたものをただやるだけだったので、参加している感がなくて。
大村:それで、藤田に役割を何か与えたほうがいいのかなと思って、ツアーの中で流れる音楽を決めていいよって。それまでは音楽も俺が決めていたんですけど、それを与えたら生き生きとやり出して。最初からこうすればよかったなと(笑)
――音楽を藤田さんが担当するようになったのはいつ頃からですか?
大村:ちゃんと覚えてないですけど、完全にやるようになったのは4、5年前くらいかな。
藤田:あと、オープニングの映像の構想とかも同じタイミングで考えるようになりましたね。
――藤田さんもツアーへの関わりが増えて、お客さんを楽しませるという原点に戻られたということですね。
藤田:今はそれが当たり前だと思っているんですけど、そういえば当時はそんな感情だったなって感じです。