“元祖eスポーツ”は子どもたちの夢の舞台
――ゲームのイベントといえば、高橋名人は「ハドソン全国キャラバン」のイメージが強いと思います。キャラバンはeスポーツの先駆けのような存在ともいえると思いますが、当時はどんな感じだったのでしょうか。
名人:当然、当時はeスポーツなんて言葉はありませんでした。今のeスポーツとも違う点はあるのですが、全国各地で行ったゲーム大会としてはキャラバンが初めてだったのではないでしょうか。
――ほぼ毎日開催して、名人がそれぞれの会場に訪れていたんですよね。まさにライブの全国ツアーのような感じがします。
名人:どちらかと言うと、プロレスの興行みたいな感じかな。10台のモニターを用意して、250人くらいの参加者で、毎日2回大会を開いていました。予選から本戦まで、大体2時間半で終わるように設定していたんですけど、それでも最後の方はあぶれて参加できない子供たちもいましたね。
キャラバンは、南から北上するチームと北から南下する2チームが同時に行っていたんですが、大阪ではモニターを倍増させました。2回で700人くらい参加したんじゃないかな。たしか、大阪での開催場所は阪急デパートで、待機列がデパートを3周半くらいしていたって聞いています。翌年の開催では、500~700人くらいの参加だったと記憶してますが、3000人くらいの応募がありました。参加するだけでも大変なイベントになりましたね。
――スケジュールもハードですよね。
名人:朝6時に起きて、7時に設営を開始し、10時から大会を始めて、12時半くらいに終わる。30分くらい休んで、2回目が始まって、16時くらいから撤収するんです。そこから、スタッフは機材を運ぶ車で次の開催地に移動。僕はアシスタントと一緒に電車で移動していました。夕飯を食べつつ反省会をして、12時には就寝し、また翌日は6時から活動する感じですね。これを40日間繰り返すんです。
その間、一度だけ3日間のお休みをもらって東京に戻ってきたんですけど、そのうち1日はテレビ番組の『おはスタ』に出演し、もう1日は会社で現状の報告と反省会が入っていて、結局、家に居られたのは1日だけでした。
――南下ルートは高橋名人のライバル的ポジションにいた毛利名人が担当していたんですよね。
名人:そうです。毛利君は当時大学生でした。同人誌でゲームの攻略本を作っていて、僕に見せに来たんですよね。そこで「君、ゲーム好きなんだ、うまいの?」って聞いたら、うまいっていうので、『スターソルジャー』をプレイしてもらったら、本当にうまかった。そこで、「夏休みヒマ?」って聞いたら、ヒマだと言うので巻き込んじゃいました(笑)
――人生変えちゃいましたね。
名人:まあ、僕自身も変えられちゃったんですけどね(笑)。その後もキャラバンは毎年開催し、多くの人に参加していただいたんですけど、そのうち、キャラバン小僧と呼ばれる人たちが出てきました。キャラバンが終わったら、次のキャラバンまでにアルバイトとかしてお金を貯めるんです。そして、キャラバンが始まったら、僕らと一緒にキャラバンについてきて、ほとんどの大会に参加するんですよ。当然スタッフとかとも仲良くなって盛り上がっていくんですけど、どの大会でも彼らが上位に入賞してしまい、現地の子供たちがベスト10に誰も入れない状態になってしまいました。そこで結局、一度入賞した人は「参考記録」にしようという形になりましたね。やはり、その土地でのチャンピオンを決めたかったので、そういう措置をとりました。
88年大会は初めてPCエンジンを使ってキャラバンを行いました。タイトルは野球ゲームの『パワーリーグ』。これまでは大会ごとの優勝者を決めていただけですが、このときは各地の1位選手を東京に集めて全国大会を行ったんです。地方から飛行機で来てもらったのですが、空港からはホテルに直行。ホテルで大会を開催し、終わったらまたすぐ空港に直行ですよ。東京で子どもたちを自由に遊ばせて、何かあったら大変なので、とにかく気を遣いました。