安丸氏にとっては『ゴジラ対メガロ』(1973年)以来2度目のゴジラ造型となる『ゴジラ』(1984年)だが、『メガロ』のときのいわゆる"正義の味方"風ゴジラではなく、こんどは原点に戻った"怖い"ゴジラを作るというプロデューサー・田中友幸氏からの要望があった。安丸氏はスーツ造型に先立ち、粘土による1m大の「ひな型」を製作。これをお手本にして、スーツおよびサイボットゴジラを作ることになった。安丸氏は「それまでのゴジラは、表皮にウレタン製のヒダをひとつずつ貼りつけていく"直付け"という方法で作っていた。これだと最初はよくても、撮影が進むとどんどん傷んでくるんです。だからこんどのゴジラは粘土原型からの"型抜き"で行こうとしたんですよ。こうすると、表面のディテールが崩れないんです」と、自身の造型についてのこだわりポイントを明かした。

また安丸氏は「当時は、初代のゴジラを作った利光貞三さんがまだ東宝にいらしてね。ゴジラをどういうイメージで作ったのか尋ねてみたんですよ。そうしたら、ゴジラの顔は"原水爆のキノコ雲"なんだって言われた。なるほどなと思い、僕もそのイメージを念頭に置いた」と、『ゴジラ』(1954年)でゴジラ造型を担当した利光氏の意見を参考にして、新しいゴジラにも"原点"のイメージを盛り込もうとしたという貴重なコメントを残した。

『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)でヘドラ、『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』(1972年)でガイガンを演じた(当時は中山剣吾名義)薩摩氏は、新作『ゴジラ』を作るにあたって中野監督から直々に連絡をもらったという。薩摩氏は「こんどのゴジラは原点に戻った凶暴で巨大なゴジラにしたいって言うから、うちのアクションチームで身長180cmくらいの奴を推薦したんだけれど、やっぱり顔の出ない役は嫌だって断ってきたので、だったら俺がやってやる!と言って引き受けた」と、当初は別の人物をゴジラ役にするはずが、急遽代役として自身がゴジラを演じることになった経緯を話した。

また「先輩の中島春雄さんがゴジラのスタイルを作り上げていたから、どうせ俺がゴジラをやるなら"薩摩ゴジラ"と呼ばれるようなオリジナリティを出したいと思った。どうせやるなら命をかけて!」と、独自のゴジラ演技を作り上げるため懸命に努力を重ねたことを明かした。また、造型の安丸氏に対しては「安さんは、ぬいぐるみ(スーツ)の見た目、プロポーションにはこだわるけれど、中に入っている俺の身体のことはそんなに考えていない。だから暑くて、呼吸しにくくて、重くて、動きにくくて、あのときは"鬼安"と呼んでいた」と、気さくな間柄だからこそ言える毒舌で仕事ぶりを評価した。

ここで中野昭慶特技監督が加わり、3人によるトークとなった。『ゴジラ』(1984年)ではゴジラの"足"の運び方にこだわったと話す中野監督は「ゴジラに美しく歩いてほしかったので、"能"の足はこびを参考にした。マイケル・ジャクソンのムーンウォークも同じなんですが、足をバタンバタン上げないで前、後ろに移動する。これは武道の"すり足"にも共通する美しさなんです」と、能や武道で見られる優雅な所作を薩摩氏の動きに求めたことを改めて力説した。

中野監督のゴジラにかける情熱の現れを示すエピソードとして安丸氏が語ったのは「完成したゴジラスーツの動きをテストしている際、中野さんが『ゴジラが足元にある新幹線をつかむシーンのため、しゃがむことができるように改造してほしい』と言い出して、撮影開始までほとんど日数がない上、こちらとしては体型が崩れてしまうからそれは無理だと言ったら、『こんなんじゃ(撮影)できない!』と怒って台本を投げつけてしまった。その様子をゴジラの中から薩摩さんが見ていたらしい(笑)」という、ゴジラスーツの動きをめぐる熱い男たちの戦いだった。安丸氏が「まあ、全力で改良しましたけれどね。いま思うと、新幹線をゴジラがつかむんじゃなくて、足で蹴っ飛ばしたらよかったのにな」と台本の改善点を提案したら、中野監督が「蹴とばしてもよかったなあ! そうしたら、もっとウケたかもな」と乗ってきて、会場が爆笑に包まれる一幕もあった。