日本で初めてチョコレート製品が加工販売されたのは東京・両国ではあるものの、日本初のチョコレートは神奈川・横浜から始まったという。そんな国産チョコレートのルーツとも言える横浜に1月26日、ファクトリー&カフェを備えたチョコレート専門店「横浜チョコレートファクトリー&ミュージアム」が誕生する。
"ライブ感"を大事にしたチョコ空間
「横浜チョコレートファクトリー&ミュージアム」は、みなとみらい線「元町・中華街駅」から徒歩2分のところにある「横浜大世界」の中にある。入口側の階段を上ると左右にチョコレート空間が広がっており、かすかに甘い香りも漂っている。
2階をほぼ全て用いた235.5平方メートルの空間には、大きく分けて4つのスペースが設けられている。階段から見て左側にはミュージアム&物販スペースがあり、右側には連なるようにして、ファクトリー&物販スペース、カフェスペース、体験スペースがある。どのスペースから攻めるかは、もちろん自由だ。
「横浜チョコレートファクトリー&ミュージアム」自体は、2016年秋からプロジェクトが動き出し、2017年秋にBABON patisserieのグランシェフである牧野浩之氏を総合監修に迎えて具体化。そしてこの1月26日に、ザ・リッツカールトン東京でも腕を振るった山本佳正グランシェフのもとで開業を迎える。
目指したのは"ライブ感"、そして、"シェア"したくなる空間。物販の板チョコやチョコレートポップコーンも、カフェで提供されるスイーツもドリンクも、あらゆるものがこのガラス張りのファクトリースペースで作られるため、その時その時でファクトリーの風景も変わる。ショコラティエたちが次から次へと生み出す様を眺めているだけでも、なんだか自然と頬が緩んでしまう。
チョコのルーツを追え!
チョコレートをより味わうため、まずはミュージアムでチョコネタを蓄えておこう。物販&ミュージアムは出入り自由で、もちろん入場無料。ミュージアム内に置かれた木箱や木樽、麻袋は、チョコレートが日本にたどり着くまでの歴史や航海をイメージしたものだ。
チョコレートの歴史は、紀元前2000年の古代メキシコにてカカオが発見されたことから始まり、マネ文明やアステカ文明では「ショコラトル」と呼ばれる苦い液体が不老長寿の薬とされたこともあったという。その後、アステカ文明を滅ぼしたスペインのコルテスが、カカオを薬として王に献上。苦み緩和で砂糖を入れられたものが一気に広がり、スペイン王女が嫁入り道具としてフランスに持ち込んだことから、ヨーロッパ各地に広がったという。
日本でチョコレートの歴史が始まるのは江戸時代になってから。当時はまだ、チョコレートは飲むもので食べる形状にはなっていなかったという。19世紀の終わり頃になると、横浜には外国人が経営するホテルや洋菓子店が誕生し、日本人シェフたちはそこで知識や技術を学んだ。そして明治11(1878)年、横浜で技術を学んだ米津松造氏が、東京風月堂にて日本初のチョコレート製品を加工販売したという。
さらに奥には、チョコレートトリビアの空間が広がっている。なぜチョコレートには銀紙が使われているのか、チョコレートを食べすぎると鼻血が出るのは本当なのか、チョコレートは失恋にも効果があるのか。その答えはぜひ、自分の目で確かめてほしい。
チョコネタを仕入れた後は、実際にその製造現場を見に行こう。ファクトリースペースでは、カカオ豆からチョコレートになるまでの製造工程も紹介されている。ただし、現場を見られるのはチョコレートになってから。カカオ豆の行方はイラストをチェック。収穫されたカカオ豆は一度発酵され、乾燥、焙煎(ロースティング)、分離(ウィノウイング)、磨砕(グラインディング)、微粒化と精錬(リファイニング&コンチング)されることで、より口どけのいいチョコレートへと変貌する。
ファクトリースペースでは、コーティングパンを用いて素材を回しながらチョコレートを噴射してコーティングする様子を見学。回転速度や噴射の分量・感覚、吹きかける風の温度を調整することで、ベストなチョコレートに仕上げていく。その隣にはテンパリングマシン(調温機)がある。まずは40~50度で溶解し、一度26~29度に下げてから、再び29~32度まで上げる。この調温でツヤや口どけが決まるそうだ。
見学時には稼働していなかったが、その隣にはエンロバーと呼ばれるチョコレートをコーティングするベルトコンベアのスペースがある。そして、出来上がったチョコレートを包装するピロー包装機が続く。この機械は1時間に900個の商品を包装することができるそうだ。これらの工程のほか、カフェで注文された様々な商品が続々と生み出されていく。