新会社の本社は田辺ビルの場所
だが、大阪で仕事を進めるうちに、早川氏は、商魂に徹した大阪の土地柄や、地位や毛並みを問題にしないという風土が気に入り、この地で再起を図ろうという決意を固めていくことになる。
ある日、借家の近くで懇意になった荒物屋の店主の紹介で、大阪の南の郊外にいい土地があると聞かされ、早川氏はそこに出向いた。
それが、旧シャープ本社があった、いまの大阪市阿倍野区長池町である。
当時は、水田続きの場所で、麦の穂が伸び、黄色い菜の花が揺れる穏やかな田園風景が見られる場所。村の子ども達が遊ぶ姿もあちこちで見られたという。
この場所を気に入った早川氏は、すぐに土地を借りることを決定。235坪の土地を、坪6銭で10年間借用する契約を結んだ。
「なぜ、こんなへんぴな土地を選んだのかというと、地代が安かったことに加え、自分の工場を大きくすることで、不便なこの地を発展させたいという気持ち、遊んでいる村の子ども達が成人したときには私の工場にきて事業の発展に協力してくれるに違いない、という夢を描いたからである。土地の不便さは気にならなかった」と、早川氏は述べている。
日本文具製造の技師長として勤務する契約が切れる1924年8月には、工場と住宅が完成しており、1924年9月1日には、「早川金属工業研究所」の看板を掲げ、早川氏は大阪で事業を再スタートすることになったのだ。このとき、東京から連れてきた14人の技術者たちも、「日本文具製造と同じ月給は払えそうにない」と言ったにも関わらず、早川氏の新会社に移籍してきたという。
なお、シャープによると、このときに新会社をスタートした場所は、旧本社の場所ではなく、向かい側の田辺ビルの場所だという。つまり、大阪での創業の地は、一度売却したNTT都市開発から見事に買い戻すことに成功したともいえる。
電機メーカーとして発展、「シャープ」に社名変更へ
シャープペンシルの特許はすべて譲渡してしまった早川氏の新会社は、新たな事業を開始する必要があったが、そこで目をつけたのが、当時放送開始が間近に迫っていたラジオだった。ここから電機メーカーとしてのシャープがスタートすることになる。
1925年3月に東京、6月に大阪で放送が開始されるのにあわせて、同年4月、シャープは、小型鉱石ラジオを完成させた。これが、シャープの電機製品第1号であり、その品質の高さから、シャープラジオの名が全国に知られるようになった。
シャープラジオの名称は、シャープペンシルにちなんで採用したものであったが、感度よく受信できるラジオの商標として、象徴的だったと早川氏は語り、その名称を気に入っていたようだが、実は、形容詞である「シャープ」が商標として認可されるまでには2年もの期間を要したという。
その後、シャープは、テレビや家電製品にも範囲を広げ、電機メーカーとしての地歩を築いていった。1956年に大阪・田辺に新たな本社社屋を建設。1960年には、本社工場である田辺工場で、カラーテレビの量産を開始。業績を拡大していった。