――もし、この小説が先にあったら映画は違うものになったと思いますか?

新海監督「小説が先にあれば46分の作品にはならなかったと思います。ただ、46分の尺で作れといわれたら、映画に近いものになるかな。尺の指定がなければ、タカオとユキノの話がメインで、その裏側に伊藤先生の相澤の話を敷いて、100分ぐらいの作品にしたかもしれません」

――そう考えると、なかなか面白い題材ですよね

新海監督「小説は、思っていたよりも観客に書かされたという感覚が若干あります。自分自身、もちろんキャラクターに愛情を込めて描いてはいるのですが、観客、特に若い子たちはそれ以上に入り込んで、キャラクターを愛してくれている。それを作品を作るごとに実感させられて、何とかしてあげなくちゃいけないって気持ちにさせられます。今回の小説のラストも、タカオとユキノについて、もうちょっと何とかならないのかっていう声が聞こえてきて(笑)」

――映画は映画で、綺麗な終わり方だと思います

新海監督「僕も、あの終わり方で正しかったと思っているのですが、あえて小説にエピローグを追加したのは、観客のキャラクターに対する愛情から、ああなってほしい、こうなってほしいといった声をたくさんいただけたからですね」

――監督は小説を書くとき、映画での映像表現を意識したりするのでしょうか?

新海監督「映画の映像をそのまま文字に置き換えようとは考えていませんでした。それをやっても仕方ないじゃないですか。実際に文字で読んだとき、読者にどのような情景を思い浮かべさせるかは、技術的な課題として常にありますが。小説を書く際、まず該当箇所の映画本編の映像を一通り観て、セリフを聴いて、風景を確認しながら書き進めるんですけど、ただ絵をなぞっていくような書き方をしたところは一カ所もないと思います。文字表現として独立した小説にしたいと最初からずっと思っていたので。小説だけを読んだ人が、映画の映像を思い浮かべることはないでしょう。それは相当に難しいことだし、そんなことをすること自体、意味のないことですから」

――映像は映像、文字表現は文字表現ということですね

新海監督「小説から入った人が実際に映画を観たら、まずはその尺の短さにビックリすると思うんですけど(笑)、それ以上に、映像表現としても驚きがあると思います。もしかしたら、アタマで思い浮かべていたよりもさらに鮮やかな景色が広がっているかもしれません。そこは人によって違うかもしれませんが、文字と映像はこんなにも違っていて、音も含めて、映画ってすごいなって思ってもらえるものになっているのではないかと思います」

――実際に監督が見せたい景色というのは、映画と小説だと、どちらのほうが表しやすいと思っていますか?

新海監督「どちらも別々のものであって、どちらもまだまだ表しきれているとは思っていませんが、作っていく過程においては、それぞれの楽しさ、技術的な楽しさがあります。理想の風景はひとつだとしても、媒体によって、当然その表現は変わってくると思いますし。映画の制作は、何より分業なので、その流れの中でどのように絵を組み立てていくか、そこに大きく力点が割かれるわけですよ。キャラクターと風景で描かれる部署が違うので、最後にそれをどういった色彩で設計して一枚の絵にするか? それが映画作りの面白さでもあるのですが、小説だとどこまでいっても自分ひとりで完結できてしまうので、一行書いたその一行すべてに意味を持たせることだってできる。それがとにかく面白くて、手っ取り早くて、気持ち良い(笑)。まだ二作しか書いてないところの浅はかさでもあるんですけど、映画だって脚本からスタートするわけですから、最初は文字ですよね。脚本に小説のような完成度は求められないですけど、その段階で一回話はできあがっているわけで、そこからひたすらに長い工程を経て、映画が出来上がる。でも小説は、書いた文章がそのまま原稿用紙1枚でいくらになると考えると、やはり手っ取り早いし、気持ち良いですよ。100%自分で完結できるというのはやっぱり気持ち良い」

――小説家のほうがいいですか?

新海監督「いいですね(笑)。とはいえ、自分はアニメーションを作っているからこそ文章を書かせていただけるのであって、アニメ監督じゃなければたぶん作家としてデビューなんてできなかったと思います。アニメよりもはるかに競争率が高い仕事ですから。ただ、実際にやってみて、とても魅力のある仕事だとあらためて思いました」

――すると、次作でも小説を執筆なさいますか?

新海監督「次の作品がどのようになるか、まだまったく固まっていないので、何とも言えないですね。それがどのような作品なるか次第だと思います。小説化するにしても、自分が書くのか、ほかの人が書くのか、そのあたりについても次の作品次第です」