ヒストリーゾーン「1号機ものがたり」
冷蔵庫、洗濯機やカラーテレビなど、東芝の歩みとともに、日本の電気・電子技術が発展する様を実機の展示と解説で楽しみながら学べる。日本初の掃除機や冷蔵庫をぜひ見てほしい。
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大正6年(1917年)、日本初の三極真空管(オージオンバルブ)。アメリカのリー・ド・フォーレが三極真空管を完成してから10年目、ここから日本の真空管が始まった |
ラジオ受信機とラジオスピーカー。大正14年(1925年)、芝浦製作所によるJUNOLA(ジュノラ)と、JUNOLAスーパーへトロダインスピーカー。大正14年(1925年)3月22日、日本初のラジオ放送開始にあわせ、芝浦製作所はJUNOLAを発売した。同年、芝浦製作所と東京電気の2社が合併し、東京芝浦電気が発足した。大正12年(1923年)の関東大震災にて、東京電気の工場と研究室が全壊、それを乗り越えての開発であった |
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日本初の電気洗濯機。昭和5年(1930年)、芝浦製作所。「Solar」の商標で昭和27年まで国産唯一の電気洗濯機だった。当時価格で370円(大卒初任給50円)。自動絞り機付きの洗濯機本体は、ハレー・マシン社から技術を導入、攪拌翼はGE社の技術を採用した。洗濯容量は6ポンド(約2.7kg)。本体上部にあるローラー状のものが自動絞り機。攪拌翼は、アルミ中空体の3枚羽根が上から下に向かって20度の傾斜がある。毎分約50回、200度の往復運動を繰り返す |
日本初の電気冷蔵庫。昭和5年(1930年)、国産第1号の家庭用冷蔵庫(SS-1200)が、芝浦製作所の東京工場(現:JR大井町駅前)で完成した。当時価格720円(大卒初任給50円)。米国GE社製をモデルに研究開発したもので、容積は125L、重量157kgと、金庫を思わせる堂々たる風格であった。製氷器も装備されている |
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昭和6年(1931年)、日本初の電気掃除機「VC-A」。米国GE社の真空掃除機がモデル。長い柄のついた走行車輪付。消費電力60W。当時価格110円(大卒初任給50円)。吸込用床ブラシとモーターが一体化した先端部に走行車輪がつき、軽く手で押すだけで掃除ができるよう工夫されている。吸引されたゴミは袋の中へ入り、繰り返し使えるエコロジーが感じられる |
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昭和15年(1940年)、日本初の蛍光灯。試作品が法隆寺金堂壁画模写の作業に採用された。昭和16年(1941年)に「マツダ蛍光ランプ」として、15Wと20Wを正式に発売。管径は38mmで、全長はそれぞれ435mm、580mm。「マツダ蛍光ランプ 15W昼光色」と記載がある(写真右)。タングステン電球の商標が「マツダ」、ゾロアスター教の主神(光の神)「アウラ・マツダ」に由来する。「マツダ」は外来語につき、太平洋戦争時は使用しなかった
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昭和29年(1954年)、日本最初期の計数電子計算機「TAC」(真空管式コンピュータ)。信頼性の高い真空管をはじめとして、コンピュータの心臓部であるブラウン管メモリ、ブラウン管蛍光面の物性的均一性、電子ビームの太さ、ビーム駆動特性の安定性など、開発は困難を極めた。2013年、国立科学博物館「重要科学技術史資料」に登録される |
計数電子計算機「TAC」の3インチブラウン管メモリ。使用真空管は7,000本、ダイオードは3,000石。当時は、このラックと同じ筐体が4つあり、合計16本、512長語の記憶装置を実現した |
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昭和34年(1959年)、ゆで卵器「BC-301」(写真中央)。温度管理を気にせずに、一度に5個のゆで卵を作れた。写真右は日本初の自動式電気釜、昭和30年(1955年)。全国の農村で実演販売を開始し、爆発的に売れるようになった。最高で月産20万台を達成し、4年後には日本の全家庭の約半数にまで普及。総生産台数も1,235万台を記録した。三重釜間接炊きという方法によって、外釜にコップ1杯の水を入れ、約20分後に蒸発したときに、釜の温度が100度以上になるとスイッチが切れる仕組み。3合の内釜を2つ装備でき、味噌汁作りと炊飯を同時に行うなど、家庭ごとに応用した利用法があった |
昭和32年(1957年)ごろ、冷蔵庫、洗濯機、テレビは「三種の神器」と呼ばれる。主婦の憧れの的だった。写真左の自動反転噴流式洗濯機「VQ-3」は、昭和32年(1957年)、世界で初めて布地を痛めない自動反転噴流式を採用。当時価格23,000円(大卒初任給12,000円)。パルセーター(回転翼)を採用し、洗濯量が少なくても経済的に使用できるようになった |
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昭和35年(1960年)、日本初のカラーテレビ。同年9月にNTSC方式によるカラーテレビの本放送が始まり、カラーテレビ受像機21型「D-21WE」を7月に販売開始した |
昭和36年(1961年)、日本初の電子レンジ、東芝業務用電子レンジ「DO-2273」。価格は約125万円。(大卒初任給14,000円)。国鉄の食堂車や、全国の旅館、レストラン、デパートなどに導入された |
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昭和36年(1961年)、日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータ「KTパイロット計算機」。KTパイロット計算機は、京都大学(K)と東京芝浦電気(T)が共同研究で開発したことに由来。2008年、国立科学博物館「重要科学技術史資料」に登録される |
KTパイロット計算機(KT Pilot)は、プラグボードでマイクロプログラム・ロジックを組むという画期的な可変マイクロプログラム方式であり、非同期で制御した |
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ツイステッド・ペア配線は電気ノイズ低減に役立った。ケーブルの本数には驚愕 |
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昭和49年(1974年)、世界初の家庭用単管式カラーカメラ「IK-12」。当時のカラーカメラは、被写体からの入射光線を光の3原色(赤緑青)に分解する光学系フィルターを通して、3本の撮像管を使う3管方式が主流であった。単管式とすることでコストダウンを図り、家庭普及の道を開いた。カタログでのメッセージは「色あざやかいきてるカラー 東芝≪小型≫カラーカメラ IK-12」だ。このサイズでカラーは画期的だった |
昭和49年(1974年)、世界初のVコードVTR「KV-3000」。世界初の1/2インチカセット式VTR。当時価格は325,000円。録画時間は30分と1時間の2モードがあった |
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昭和53年(1978年)、世界初の日本語ワードプロセッサ「JW-10」。当時価格630万円(大卒初任給105,500円)。「かな漢字自動変換方式」を採用し、12型モニター、ワイヤードットインパクトプリンタ、8インチFDD、10Mバイト磁気ディスクを搭載した一体型であった。2008年には「IEEEマイルストーン」に認定される。IEEEにより、JW-10が日本の情報化社会が進展する主要な役割を果たすとともに、パーソナルコンピュータにおける日本語ワードプロセッシングの基礎となった点が認められた。2008年は電気学会より「でんきの礎」と認定、さらに2009年は情報処理学会より「情報処理技術遺産」の認定を受ける。JW-10では、JIS配列または50音順配列(いずれかを選択)のキーボードを採用。キーボード右上部スイッチで、入力モード(漢字指定、文節指定)、同音語選択モード(一括選択、逐次選択)を切り替えられる。ワイヤードットインパクトプリンタは、24×24ドットマトリックスの文字構成、文字サイズ3.9mm×3.5mm、印字速度35字/秒、オプションで単票装置が用意された
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昭和60年(1985年)、世界初のラップトップPC「T1100」が欧州で発売された。IBM PC/XT互換(MS-DOS2.11)で8時間のバッテリ駆動が可能。当時としては約4.1kgと軽量のため、場所を選ばずPCを使うことを可能にした。当時価格約50万円。9.2インチ×4.2インチLCDパネル(640×200ドット)を採用し、80文字×25行のモノクロ表示が可能。フルサイズ83文字キーボードは、ファンクションキーもある。RGBとコンポジットCRTポート、パラレルプリンタポート(25ピン)、外部FDDポート、DC18V/INを備える。2013年「IEEEマイルストーン」に認定。「T1100」がラップトップPCの発展に大きな貢献をしたことが認められ、JW-10に続き東芝で2件目の認定となった
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平成6年(1994年)、世界初のクリナレスプロセス搭載ファクシミリ「PUBLIC MFX-60」。磁性材料を使わずに現像を行う技術と、残留トナーの除去が不要なメンテナンスフリー技術は、幅広く活用されている |
平成8年(1996年)、世界初のDVDプレーヤー「SD-3000」。ディスク片面で4.7GB。当時価格77,000円。ワーナーホームビデオから表彰を受け、1996年12月にはアーノルド・シュワルツェネッガー主演「イレイサー」が販売された |