――渡辺さんがインタビューや舞台挨拶で監督の「業」という言葉を良く使っていらっしゃいましたが、そのあたりはどのように受け止めていらっしゃいますか?

李監督「"欲深い"ということだと思います。『業』というと、何か深いものに聞こえますけど、結局のところ、『なんでこんなに映画を撮る上で欲深くなるんだ、この男は』みたいなことを仰っているんだと思ってます」

――監督はやはり欲深いのですか?

李監督「どうなんでしょう。まあ、監督というのはそういうものだと思います。実際のところ、実現できることって少ないんですよ。だからこそ、これだけはやりたいということがすごく積み重なってしまう」

――それが周りからは欲深く見られるわけですね

李監督「自分自身、それを表に出したつもりはないんですけど、周りからはそう見えるんでしょうね」

――演出上でオリジナルを意識した部分はありますか?

李監督「元々あの世界観が好きではじめたことで、いきなりあれをミュージカルにするとか、セリフの応酬劇にするとか、そんな意識や発想はなく、基本的なスタート地点になるテーマは引き継いでいるつもりですが、特にその通りにやろうとか、そこから逸脱しようとか、そういうことは何も思わなかったです。クリント・イーストウッドやモーガン・フリーマンを相手に映画を撮っているのではなく、目の前には生身の別の俳優さんがいるわけですから、その方々と相対していると、オリジナルをどうこうする、みたいなことはまったく意識しなくなるもんだなあと思いました」

――あくまでもオリジナルはベースでしかないわけですね

李監督「そんな中でも、オリジナルよりももっとキャラクターに肉薄しようという感覚はあったかもしれません。イーストウッドの映画は全体的にそうなんですけど、すごく神の目線的で、かなりクールなんですよ。でも、その距離感ではできない。自分はその位置にはいないし、もっと生身の俳優さんたちに肉薄していかないと自分の映画にはならないんじゃないか。そんな意識はあったと思います」

――リメイクするにあたり、時代や舞台に関してはどのようにして決めたのですか?

李監督「そもそも『許されざる者』とは別に、北海道の開拓時代、明治維新からの数年の一番混沌としている状況を描いてみたいという気持ちがあったんですよ。それは映画にはなっていませんが、そんな蓄積が自分の中にあったのが大きいと思います。そうしたときに、時代を変える必要性がまったくないことに気づいた。元々同じ時代の話しだし、一緒にしたほうが、東と西で、同じ時代に同じ出来事が起こった場合、どのようになるかという違いを見せられるのではないかと」

――その違いはどのあたりに出てきたと思いますか?

李監督「先ほども言いましたが、神の目線的な俯瞰ではなく、もっとキャラクターに肉薄するというところであり、その結果として、着地点になるラストが変わってきたんだと思います」

――本作のラストは、かなり考えさせられるような内容で、まさに監督の「業」の結実だったような気がします

李監督「謙さんが僕の『業』と言いますけど、本当は最初に2人で、こうするしか生きられない人間がいて、その『業』を感じ取れるような映画にしたいねって話をしていたんですよ」

――そういう意味では、渡辺さんの「業」もあるわけですね

李監督「あります、あります。それがないと、ああいう十兵衛にはならないと思うんですよ。謙さんの中にも、隠している『業』が必ず存在するはずで、今回の映画は、それをお互いに暴き合おうとしていたのかもしれません」