本堂や開山堂を見て回った後、座禅堂と呼ばれる建物へ。大陽寺では1日2回、朝と夕方に座禅が行われており、筆者も座禅を体験することにした。ちなみに座禅は今回が初めての体験。
座禅堂の入口には、「渓声便是広長舌(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)」「山色豈非清浄身(さんしょくあにしょうじょうしんにあらざらんや)」とある。
これは奥秩父の山奥で座禅を続けた仏国国師が、宋の時代に詠まれた詩を引用し、弟子に説いた言葉だそう。住職によれば、「耳をすませば渓谷の音や鳥のさえずりが聞こえ、説法のように聞いて学ぶことができる。目の前には雄大な山々が広がり、立派な仏様を見ているかのようだ。このような素晴らしいものを大切にせずして、何を大切にするのか」との意味も込められており、大陽寺ではこの考え方が脈々と受け継がれているという。
座禅とは、「本来の自分」を究明すること
座禅堂に入る際にはさまざまな作法がある。握った右手を左手で覆う「叉手(しゃしゅ)」と呼ばれる礼法で歩くことや、入退室時と「単」(座禅をする畳敷きの台)に座る前には、必ず合掌と一礼をすること、座禅を行うときの正しい座り方などを住職から教わった。
住職によれば、座禅は自分自身の内側にいる「本来の自分」を究明することであり、「この体が本来の自分では? と思うかもしれませんが、それは借家のようなもので、永遠に自分のものではなく、いずれは土に返さなければなりません」とのこと。「本来の自分」はへその10cmくらい下にいるといわれ、そこに意識を置くことが大事だという。
「座禅というと、多くの人が、『頭の中を無にしよう』と考えるかもしれません。しかしそう思えば思うほど、本来の座禅とは反対側に行ってしまいます。頭に浮かぶことと闘うことで、頭にばかり意識が集中してしまうからです」と住職は説明し、「自分自身の深いところまで自分の心を沈められれば、そこに波のように頭に浮かぶさまざまなこととは無関係の別世界が広がっています。そして自分自身の中に、『本来の自分』がいることに気づくはずです」と述べた。
やがて座禅がスタートし、堂内は静寂に包まれた。筆者も、「本来の自分」を探すべく、へその下の部分に意識を集中しようと試みる。しかし、これがなかなか難しい。しばらく経つと、組んでいた足がじわじわと痛くなり、「本来の自分」と向き合おうとする筆者を妨害し始めた……。
と、ここで座禅の終了を知らせる鐘と拍子木の音が。初めて体験した座禅は、「本来の自分」と向き合う難しさを痛感する結果となってしまった。