最後の飛行

最後となった72回目の飛行試験は、2024年1月18日に行われた。

1月6日には71回目の飛行を行っていたが、高度約12mに達したところで異常を検知し、緊急着陸した。NASAによると、砂地の上空を飛行中、航法に使うカメラが、安全な航行に必要な岩などの目印を識別できなかったことで、飛行を中止することになったという。

そして、1月18日、ミッション・チームは、インジェニュイティのシステムの状態を確認するため、水平飛行はせず、高度12mまで上昇するだけの、簡単なジャンプ飛行を行うことを決めた。

インジェニュイティは正常に離陸し、予定どおり高度12mに到達したあと、4.5秒間ホバリングを行い、そして秒速約1mで降下を開始した。

しかし、高度約1m上空で、インジェニュイティとパーサヴィアランスとの通信が失われ、飛行状況はわからなくなった。翌日、通信が復旧し、インジェニュイティからのデータが地上にもたらされ、さらに数日後には、ローターが破損していることを示す画像も届いた。運用チームは、なんらかの理由で機体が傾いた状態で地面に衝突し、破損したものとみている。

そして、ふたたび空を飛ぶことは不可能と判断され、1月25日、飛行実証ミッションの終了が宣言された。

インジェニュイティは、「ヴァリノール・ヒルズ(Valinor Hills)」と名付けられた場所にとどまることになった。ヴァリノールとは、J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』などに登場する架空の国に由来する。

  • 2月24日にパーサヴィアランスが撮影したインジェニュイティ

    最後の飛行から約5週間後の2月24日に、パーサヴィアランスが撮影したインジェニュイティ。ローターのひとつが外れ、インジェニュイティの西約15mの地表に落ちていることがわかる (C) NASA/JPL-Caltech/LANL/CNES/CNRS

  • インジェニュイティから撮影したローターのひとつの影

    インジェニュイティから撮影したローターのひとつの影。先端が破損していることがわかる (C) NASA/JPL-Caltech

動き続けるインジェニュイティと、火星からのサンプル・リターンの夢

しかし、インジェニュイティの冒険はまだ終わっていない。じつは、飛行はできなくなったものの、その後もインジェニュイティとの通信は維持されていた。さらに、飛行が終了するよりも前に、新しいソフトウェアが送信されていた。

このソフトには、インジェニュイティは飛行を終えたあとも毎日起動し、フライト・コンピューターを起動させて、太陽電池やバッテリー、電子機器の性能を確認することが指示されている。さらに、カメラで地表の写真を撮影したり、機体の各所に取り付けられているセンサーから温度データを収集したりもする。

運用チームによると、「火星でこうしたデータを長期間収集することで、将来、火星を探査する探査車や航空機の設計に役立つだけでなく、火星の気象パターンや塵の動きに関する長期的な見通しも提供できるようになると考えています」と語る。

なお、前述のようにインジェニュイティは、パーサヴィアランスを介してのみ地球との通信ができる。そして、インジェニュイティが飛行実証ミッションを終えたことで、パーサヴィアランスは今後、通信ができる範囲から離れて探査を行うことになる。そのため、これらのデータは、インジェニュイティのメモリーの中に保管され続けることになる。

運用チームによると、毎日データを集めても、約20年分も保存できるという。また今後、電気部品が故障してデータ収集が停止したり、太陽電池に塵がたまって電源が切れたりしても、データはインジェニュイティ内に保存され続けるとしている。

運用チームは、「いつか人類が、探査車や別の火星航空機で、あるいは宇宙飛行士が直接、ヴァリノール・ヒルズを訪れたとき、そこには、最後の贈り物として貴重なデータを抱えたインジェニュイティが待っているのです」と語っている。

さらに、インジェニュイティの次を見据えた計画も動き出している。

NASAは現在、欧州宇宙機関(ESA)と共同で、火星から石や砂などのサンプル(試料)を地球に持ち帰る「マーズ・サンプル・リターン(MSR)」ミッションを計画しているが、そこに、2機の火星ヘリコプターを含めることが検討されている。

計画では、まずパーサヴィアランスがサンプルを採取し、専用のチューブに詰め込み、自身の車体内や火星の地表に残す。それを、MSRを使って収集し、小型のロケットで火星から打ち上げ、地球に送り届ける。実施は2030年ごろに予定されている。

カプセルをMSRまで運ぶ役割は、パーサヴィアランスが担うことが第一候補となっている。ただ、2030年ごろというと、すでにパーサヴィアランスが運用できない状態になっている可能性もあるため、バックアップとして「サンプル回収ヘリコプター(Sample Recovery Helicopter)」が搭載されることが計画されている。

サンプル回収ヘリコプターはインジェニュイティより少し大きくなり、質量はインジェニュイティの1.8kgから2.3kgへ、またローターの直径は0.2m大きくなり1.4mになる。また、地表を移動するための車輪も装備している。胴体の下部にはマニピュレーター(ロボット・アーム)を装備し、チューブを捕獲できるようになっている。

もっとも、MSR計画は現在、技術的、また予算的な壁に直面しており、今後どうなるかはまだ予断を許さない。

それでも、これまでは荒唐無稽な夢物語に過ぎなかった、ヘリコプターを使った惑星探査が、現実的なものとして可能性が拓かれた意義は大きい。人類がふたたび火星にヘリコプターを送り込み、インジェニュイティに出会う日は、そして火星以外の天体を航空機が飛ぶ日も、そう遠くないのかもしれない。

  • マーズ・サンプル・リターン計画の想像図

    マーズ・サンプル・リターン計画の想像図 (C) NASA/ESA/JPL-Caltech

  • マーズ・サンプル・リターンで使われる予定の、サンプル回収ヘリコプターの想像図

    マーズ・サンプル・リターンで使われる予定の、サンプル回収ヘリコプターの想像図 (C) NASA

参考文献

After Three Years on Mars, NASA’s Ingenuity Helicopter Mission Ends
NASA’s Ingenuity Mars Helicopter Team Says Goodbye…… for Now - NASA
Flight 72 Status Update - NASA Science
Sample Recovery Helicopters - NASA Science
Mars Sample Recovery Helicopter: Rotorcraft to Retrieve the First Samples from the Martian Surface