過去最高(当時)の競争率で宇宙飛行士候補者に。

  • 1996年5月、宇宙飛行士候補者に選ばれた時の野口飛行士

    1996年5月、宇宙飛行士候補者に選ばれた時、筆者は前職・日本宇宙少年団情報誌の記者として会見に参加。「育児に参加してますか?」と聞くと「お風呂に入れるのが僕の役割。合格発表の前日におふろでお子さん(当時1歳)に『どうなるかな?』と聞いたら『大丈夫』というように手をあげてくれた」と嬉しそうに答えてくれた (提供:日本宇宙少年団)

野口飛行士がIHIエンジニアから宇宙飛行士候補者に選ばれたのは1996年5月29日。572名の応募者から一人選ばれた。競争率は過去最高(当時)。記者会見に参加した筆者は、野口飛行士を選んだ理由を毛利衛飛行士に尋ねた。「身体的にも精神的にもとても健康的でタフ。物事を成し遂げる意志力と、それをサポートする技術力をもっている。一緒に仕事をして楽しいと思える人」(毛利さん)

毛利飛行士は宇宙飛行士選抜に面接官として関わっていた。野口飛行士の面接で、毛利飛行士には忘れられない場面があった。「一発芸を見せて」と面接で急遽、リクエスト。すると野口さんは立ち上がり、目の前にいる毛利の物まねを披露したのだという。毛利が宇宙からスペースシャトルで帰還し、笑顔で手を振りながら歩くシーン。並んでいた面接官らは爆笑した。

「緊張する面接の場面で何が受けるか瞬時に考え、行動にうつす機転と度胸に驚いた」と毛利飛行士から聞いた。「よくそんな大胆なことができましたね」と後日、野口飛行士に聞いたところ、「もちろん、相手をみてどこまでなら許されるか考えてやっている。毛利飛行士とは選抜期間中、お話をする機会があり、この方なら怒らないだろうと思ったんです(笑)」。もちろん、知識や技量が秀でていたことは間違いないが、相手をよく観察し状況に応じて適切な行動をとる判断力、どんなに緊張する場面でも一瞬にして場を和ませる度胸について、野口飛行士は突出していたのではないだろうか。

コロンビア号事故 - 自分が命を落としていたかもしれない

  • 退職会見に参加した野口飛行士の左襟には2003年のスペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故で命を落とした7名の仲間の名前が刻まれたミッションパッチが
  • 退職会見に参加した野口飛行士の左襟には2003年のスペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故で命を落とした7名の仲間の名前が刻まれたミッションパッチが
  • 退職会見に参加した野口飛行士の左襟には2003年のスペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故で命を落とした7名の仲間の名前が刻まれたミッションパッチが (右の写真の提供:NASA)

野口飛行士は宇宙飛行士候補者に選ばれた後、1996年8月から、NASAで2年間の宇宙飛行士養成コースに参加。1998年4月にNASAから宇宙飛行士に認定される。2001年にはISS(国際宇宙ステーション)組み立てミッション(STS-114)に任命された。当時は翌年の2002年7月に打ち上げ予定で、船外活動を1回行う予定だった。

船外活動は2人一組で行う決まりがあり、野口飛行士はチーフに任命される。外国人が船外活動チーフになるのは、初めて。だが、日本人初の船外活動は土井隆雄飛行士が既に達成していたし、宇宙に行く日本人は6人目。メディアにとってわかりやすい「日本人初」がない、ある意味地味なミッションだったと言える。そもそも野口飛行士は、宇宙飛行士をどこか「仮の姿」ととらえているところがあり、「宇宙飛行を難なく終えたら、『そろそろ正気に戻るか』と元のエンジニアに戻る。そんな『なんちゃって宇宙飛行士』でもいいかと思っていた」と「宇宙に行くことは地球を知ること」(野口飛行士、矢野顕子、取材・文林公代、光文社)のインタビューで語っている。

それが一変したのが2003年2月1日に起こった、スペースシャトル・コロンビア号(STS-107)事故だ。この事故が「25年間で一番つらい出来事だった」と5月25日の会見でも語っている。着陸直前にスペースシャトルが空中分解し、7人の乗組員が命を散らした。実はその1か月後の3月1日に、野口飛行士らが次のスペースシャトルに乗って打ち上げられる予定で、訓練は大詰めを迎えていたのだ。7人中4人は、NASAの宇宙飛行士養成コースで2年間訓練を共にした友人であり、家族ぐるみで親しくしていた。

  • コロンビア号事故後、NASAジョンソン宇宙センター正門にはたくさんの献花が寄せられた

    コロンビア号事故後、NASAジョンソン宇宙センター正門にはたくさんの献花が寄せられた (提供:NASA)

飛行順番が違えば、自分が命を失っていたかもしれない。他人事ではなく、自分の痛みとして受け止めざるを得なかった。「(彼らは)自分たちが経験した宇宙のすばらしさを世界に伝えたいと思っていたはずだし、家族との再会をどれだけ楽しみにしていたことだろう。そう思うと無念でならず、喪失感に包まれました」(同書より)。

コロンビア号事故前は、自分が宇宙から帰ってこない可能性があることをリアルには考えていなかった。事故に直面し、宇宙飛行の意味を深く見つめ直すことになる。友人を失い、残された家族の埋めようのない悲しさを目の当たりにし、かけがえのない命の尊さを理解した。周囲からは宇宙飛行を反対する声もあった。しかし「それでも飛ぶ」と決めた。

  • コロンビア号事故後、飛行再開フライトとなった野口飛行士らのミッションでは当初1回だった船外活動が3回行われることに

    コロンビア号事故後、飛行再開フライトとなった野口飛行士らのミッションでは当初1回だった船外活動が3回行われることに。「NASA宇宙への復活」という宇宙開発史に残る飛行で日本人である自分が船外活動をやらせてもらえるのかという不安の中で、野口飛行士は通常の4倍の訓練時間をこなし、誰もが納得する実力を身に付けた (提供:NASA)

リスクがあることを承知した上で、自分にはやるべきことがある。宇宙に行くことは人類の可能性を広げること。「コロンビア号で仲間が亡くなってから、私の宇宙飛行士としての使命は7名が見た景色と伝えたかったことを伝えていくこと。そのためには何が何でも帰還することだった」。野口飛行士の胸には、コロンビア号(STS-107)のミッションバッジが光っていた。