Guest 01 高橋源一郎

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部除籍。1981年『さようなら、ギャングたち』(講談社)で小説家としてデビュー。1988年『優雅で感傷的な日本野球』(新潮社)で三島由紀夫賞を、2002年『日本文学盛衰記』(朝日新聞社)で伊藤整文学賞を受賞。2005年より明治学院大学国際学部教授。
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古典をオンスクリーンで読む


橋本「電子書籍が話題になっています。どんな印象を持っていますか」

高橋「最初はね、『電子書籍なんて読めるわけないじゃん!』と思っていた。でも、編集者に勧められて、ニンテンドーDSで『DS文学全集』を読んでみたら、これがなかなかいい」

橋本「何を読んだんですか」

高橋「原民喜の『夏の花』。原民喜なんて岩波文庫で読むものというイメージじゃない? なのに、DSで読んでしまったという。しかも蝉の声をBGMに設定できる(笑)。そのとき思ったのは、古典と呼ばれるテクストは、どんな環境に置いても、読めるということ。理想の読まれ方が、机に正座してページをめくることだとしたら、DSで原民喜を読むというのは、本来の魅力が30%くらい減っているのかもしれない。でも、逆にいうと、30%減でしかない。けっこう生命力が強いと思うんだよね」

橋本「つまり、古典的なテクストはオンスクリーンでも戦えると」

高橋「戦えますね。ぼくの世代は、メディアの変化を経験しています。マンガ雑誌は月刊から週刊になったし、ラジオからテレビへの変化もあった。テレビだって、モノクロからカラーに進化した。だから、自分の中に、世界はいつ変わるかわからないという感覚がある。言い換えると、変わることに対する不安がない、ということです」

橋本「現代文学の書き手としてはどうですか? オンスクリーンで戦っていける自信はありますか?」

高橋「ぼくが属しているのは、純文学というジャンルなんだけれども、純文学の作家は、言葉を洗練させる専門家なんですね。ある意味、ものすごくタフな作業を続けてきている。だから、鍛えられているわけ。どこにいっても営業できますという感じ(笑)。そこで培われた知識や技術は、環境の変化に影響を受けつつ、それを超えちゃうんじゃないかな」

橋本「逆に、オンスクリーンでは読めるけれども、紙の上ではダメなテクストというものもありますか?」

高橋「ケータイ小説はそうかもしれない。あれは紙の上に印刷すると違和感がある。ケータイ小説は、とりあえず、小説というスタイルを採用しているけれど、どちらかというと、ラップに近いんじゃないかな。つまり、女の子がラップしているところを、採録したような感じなんだ。小説とは、まったく別のジャンルだと思う。そういう意味では、紙メディアとの相性は悪いかもしれない」

橋本「つまりスクリーンネイティブの言葉ということでしょうか?」

高橋「ぼくは大学でも教えているんですけど、いまの学生たちは、旧来の教養主義とは無縁の場所で暮らしている。だから、スタンダールの名前も知らないし、当然、読んだこともない。こういう事態を嘆かわしいと思う人たちも、大勢、いるでしょう。ぼくだって、『読んだことがなくても、スタンダールの名前くらい、知ってるだろ!』と思うもの(笑)。一方で、ネットやケータイの世界で、彼ら彼女らは、言葉を介してコミュニケーションしている。という意味では、こんなにたくさんの言葉を、こんなにたくさんの人間が読み書きしているというのは、歴史上、初めての状況だよね」

橋本「じゃあ、読み書きの能力は、むしろ、高くなっている?」

高橋「ある側面においてはそうでしょう。従来の言葉の文化とは違うものに育つ可能性があると思います」