ムンクの『叫び』と聞いて盗難事件を思い出す方がいるかもしれない。ムンク美術館は1994年に武装した強盗団に襲われ、ムンクの傑作『叫び』が盗まれた。その2年後にオスロ市内で発見。修復作業を経て今年5月23日より一般公開されている。しかし、ムンクの『叫び』はノルウェー国立美術館にもある。画集に掲載される『叫び』のほとんどはこのノルウェー国立美術館のものだ。筆者はもう一枚の『叫び』を見るため、ノルウェー国立美術館を訪れた。
カール・ヨハン通りからほど近く、オスロ大学の裏側にある赤レンガの建物がノルウェー国立美術館である。盗難事件の影響からだろう、入場の際大きな荷物は美術館のコインロッカーに入れるよう指示された。
素直に指示に従って同美術館の2階に上がり、ムンクの作品を展示している部屋へと向かった。広々とした空間に天井からは自然光が差し込み、ムンクの作品をやわらかく照らし出す。中央にはソファがあり、ゆったりと座って鑑賞することもできる。
その展示室の奥に『叫び』(1893年、91.0×73.5cm)は展示されていた。
1891年のスケッチでムンクはこう記している。
「わたしは2人の友人と道を歩いていた-そのとき日が沈み-空がにわかに血の赤に染まった。わたしは立ち止まり、なんとも言いようのないほど疲れて柵に寄り掛かった-炎と血のように赤い舌が青黒いフィヨルドをなめていた。友人たちはそのまま歩き続け、わたし一人不安に身をふるわせて立ちすくんでいた-そして自然の果てしなく続く大きな叫びが聞こえた」
ムンクは、この体験を絵にすることができないと悩んでいたようだ。同じくノルウェーの画家、クリスチャン・スクレスヴィークはこう回想している。「血のように赤い、。いや、あれはべっとりと固まった血のりだった。こんな風に感じるのは彼だけだ。誰だって夕焼け雲としか思わないだろう。『彼は不可能を切望し、絶望を固く信じているのだ』と私は思った-だが、私はそれを絵に描いてみたらいいと勧めた-そして生まれたのがあの傑作『叫び』である」
木造の橋の上で、男は自然の「叫び」を聞き、絵の前に立つ私と対峙する。顔のない男はムンク自身を指しているという。表情は不安にさいなまれ、何かを叫んでいるかのようにも見える。2人の帽子を被った男は何事もなかったかのように、男を取り残していく。孤独、不安、絶望……。そうした渦巻く感情が1枚のキャンバスの上に描かれている。
ムンクは生前、こう記している。「病気と狂気と死であり、それらが私のゆりかごを見守ってくれた黒い天使の群れであった。以来、かれらは私に一生つきまとった」と。ムンクは幼くして母と姉を結核で失っている。また妹は長い間精神病院に入院した。ムンク自身も13歳で喀血し、病気と死への不安が彼の性格と作品を支配することになったという。またムンクは、重いリューマチ熱にかかり、技術者となる道を断念して画家を志す。そして彼は病気のため、一生涯独身だった。
こうして彼の人生を振り返りながら『叫び』という絵を見直すと、手記からも分かるように、彼が叫んでいるのではないというのがよく分かる。彼は叫びから必死で耳を塞ごうとしているのだと。
ノルウェー国立美術館ではこのほかにも、ムンクの傑作を見ることができる。ここからは写真と文でムンクの作品を紹介していくことにしよう。