注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、『テレビ千鳥』のプロデューサー・ディレクターを務めるテレビ朝日の山本雅一氏だ。

制作会社時代に「遠回りして」バラエティにやってきたという同氏。報道番組での経験に加え、中居正広、千鳥、そして師と仰ぐ加地倫三エグゼクティブプロデューサーと仕事をする中で、「リアルな面白さ」「やってみないと分からない生感」を意識して制作に臨むようになったという――。

  • 『テレビ千鳥』プロデューサー・ディレクターの山本雅一氏

    山本雅一
    1979年生まれ、大阪府出身。大学卒業後、02年に制作会社ザ・ワークスに入社。『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)、『ネプ&イモトの世界番付』『ナカイの窓』(日本テレビ)などを担当し、16年にテレビ朝日へ入社。『ロンドンハーツ』『千鳥の路地裏探訪』『三四郎の世界カンペ旅』『霜降り&錦鯉の親孝行イズビューティフル』『大悟の忖度なき提言』『吉田粗品の選択』などを担当し、現在は『テレビ千鳥』でプロデューサー・ディレクター、『霜降りバラエティX』で演出・プロデューサーを務める。

芸人を目指した頃に千鳥と出会う

――当連載に前回登場した日本テレビの小田玲奈プロデューサーが、山本さんについて「昔『ネプ&イモトの世界番付』という番組で、ロケディレクターをやっていた仲です。一緒にロケに行くことはないんですけど、スタジオ収録のときに誰のVTRが一番お客さんの笑いを取るかという感じでライバル視してて、その後に飲みに行って“あのVがウケてた”、“あれがスベってた”とか、ロケ先で起きた話とかで盛り上がるので、私がドラマに異動するのが遅くなったのは、あの時間が楽しすぎたからだと思ってます(笑)。それから時が経って、“いかがお過ごしですか?”と聞いてください(笑) 。子どもが『テレビ千鳥』が好きで、“だいご、だいご”って言いながら TVerとかで見てるんですけど、そのたびに誇らしい気持ちになります」とおっしゃっていました。

ああ、いい言葉をありがとうございます。本当にそうでしたね。『世界番付』は海外ロケに行くロケディレクターの面白勝負みたいな感じでした。僕は当時、制作会社にいたんですけど、32歳くらいで1,000万円近い制作費を背負ってVTRを撮ってくるわけだから絶対にスベれない。小田ちゃんは局員ですけど、制作会社の僕に「一番面白いV(TR)をつくってるのは私は分かってるよ」みたいなことを言ってくれましたね。小田ちゃんのVもウケてましたよ。

その時から気さくで上も下もなく分け隔てない楽しい人で、当時は「オダレナ」「まちゃ」って呼び合ってました(笑)。だからドラマに行ったら余計、演者さんや脚本家さんとの距離感が大事なので、ドラマPに向いていたんでしょうね。『ブラッシュアップライフ』もリアルタイムで楽しませてもらったし、陰ながら応援してました。

――『世界番付』ではどんなロケをされたんですか?

一番視聴率を獲ったのは「世界一まずい国イギリス」っていうすごい失礼なVTRでしたね(笑)。番組の演出は日テレの黒川高さんだったんですけど、その失礼な企画を、取材した国やお店へのリスペクトを残しながら、どうやったら皆が楽しく見られるものとして放送できるかっていうのを戦ってくれました。JOYさんと行ったんですけど、僕は1,000万のプレッシャーもあるし、若かったから (カメラを)回してなんぼみたいな考え方で、あまりにもロケするから事務所からクレームが来たらしいです(笑)。その後もJOYさんとは仲良くさせてもらってますけどね。一応、本編のディレクターもやっていたんで自分で行きたい場所を決めて、楽しいロケばかりさせてもらいました。

――部族ロケとかには行かず。

行かなかったですね。加地さんにも聞かれて答えたら「部族ちゃうんかい」って(笑)

――山本さんは元芸人だそうですね。

芸人とまで言えるか分からないんですけど、高校生の時に心斎橋筋2丁目劇場の「WA CHA CHA LIVE」のオーディションに1回奇跡的に受かったんですよ。それで大学生になってちゃんと芸人を目指そうってなった時に、いろんなライブに出ていたんです。その中で、今は吉本新喜劇の清水けんじさんが「フロントストーリー」というコンビで出ていて、「君らオモロいな。大阪のワッハ上方でライブやってんねんけど、一緒に出えへん?」って声をかけてくれたんです。

そのライブが笑い飯さんや千鳥さんが出ていた「魚群」。お二方とチケットを一緒に手売りしたり、ライブ後に飲みに行ってました。ただ千鳥さんにその話をしたら全く僕のことを覚えてなかったですね(笑)。『テレビ千鳥』に「魚群」出身者が出るたびに聞くんですけど、誰も覚えていない。で、笑い飯の哲夫さんに「ゾロノア」ってコンビ名を出したら、「いましたね」って言われました。やっと回収できました。当時、哲夫さんはライブを仕切っていて、お客さんのアンケートも何度もチェックしていたので覚えてる、とのことでした。

――当時の千鳥さんの印象は?

あの頃から面白かったですよ。baseよしもとに入る前くらいだったんですけど、今とそんなに変わらないイメージ。なんかうんこするだけのネタをやってました(笑)。当時は僕もトガッてたんで、何がおもろいねんと思いながらやってましたけど、2~3回出て心が折れました。やっぱりモノが全然違いました。だから僕は「元芸人」というよりは「芸人になりたかった人」みたいな感じですね。

教授が欲しがった「ジャンボタニシが夜中にピンクの卵を産む瞬間」

――そこからなぜ制作会社に入ったのですか?

僕はネタを考えられなかったんで、違う形で人を笑わせられたらいいなと思って、芸人さんと一番近い仕事って何かと考えるとやっぱりテレビだと思って、テレビの制作会社を受けたんです。それで「ザ・ワークス」という結構大きな会社に入れました。

実は面接の時、一緒に受けていた横の子にキレたんですよ(笑)。僕が「芸能人を使わずにおっさんだけ出る番組をやりたいです」って言ったら、横の子が「誰が見るか分かりません」みたいに否定したんです。それで興奮して必死に説明したら、その時の面接官が、のちに社長になる『ドクターX』のプロデューサーの霜田(一寿)さんで、「おまえ面白いな」ってなって採用されたんです。だから、最初に配属されたのはドラマ班(笑)。僕、結構遠回りしてるんですよ。

――制作会社時代に印象に残っている仕事は?

すぐにバラエティ班に入れてもらえたんですけど、2年目のときに報道番組をやってほしいと言われて『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)の「怒りの導火線」というコーナーに入ったんです。とにかく強い映像を撮ってこいみたいな感じで、たぶんテレビ朝日のライブラリーにある貴重な映像には僕が撮ったものが結構あると思います。「闇金が被害者に300万円返しに来る瞬間」とか「パチンコのゴト師が捕まる瞬間」とか。

「ジャンボタニシが夜中にピンクの卵を産む瞬間」も僕が何時間もかけて撮りました。教授にもその映像が欲しいって言われました。「こんなにきれいに卵を産んでいる映像は世の中にないから欲しい」って。渡せないという規則があって断らざるを得なかったですが、渡してあげたかったですね。報道ってある意味でお笑い的で面白いんですよ。みんな真剣だから。そのリアルな面白さにハマってしまって、25歳から29歳くらいまでやってましたね。

――そこからまたバラエティに戻るきっかけは、なんだったのですか?

ちょうど局内で加地さんを見かけたんですよ。当時も『ロンハー(ロンドンハーツ)』『アメトーーク!』は欠かさず見ていて、「うわっ加地さんや。本当にいるんや!」って。それで「あれ? 俺、お笑いやりたくて東京来たんちゃうんかい」と思って異動願を出しました。でも『スーパーJチャンネル』ではいろいろ学ばせてもらいましたね。自分でカメラも回しますから。その瞬間を切り取るみたいなことは、お笑いにも通ずるところがあると思いますね。

それからお笑いの部署に戻って、日テレの黒川さんと出会って『世界番付』をやっているときに、中居(正広)さんと黒川さんが番組を立ち上げるとなって、5~6人のディレクターの中に呼んでくれました。