• 『BORDER』TELASA(テラサ)で連ドラ、スペシャルドラマ、スピンオフ全シリーズ配信中
    (C)金城一紀/テレビ朝日

――どういう狙いで『BORDER』を立ち上げることになったのですか?

テレビ朝日は刑事ドラマが伝統的に強かったし、僕が担当したときの『相棒』は及川光博さんのシーズン9で、脚本家もオリジネーターの輿水(泰弘)さんをはじめ、櫻井武晴さん、古沢良太さんとスターぞろいで、視聴率がずっと20%を超えてるような時期だったんですよ。わりと社会派で攻めた題材でも臆せずにやって結果が出せていたこともあり、自分としては海外ドラマのクオリティにいつも刺激を受けていたので、日本の刑事ドラマはもっと先に行けるんじゃないかと感じていました。

そんなときに『BORDER』の企画を構想されていた金城一紀さんという最高の才能を持つ方と出会えました。当時のテレ朝のドラマはなかなか若いターゲット向けの主演キャストの方に来ていただける機会がない中で、『岳-ガク-』を一緒に作った流れもあって小栗旬くんに交渉し出てもらえることに。これはある種、刑事ドラマというテレ朝の“利き腕”の土俵の中で、今までにないドラマに一番挑戦できる企画にできるなと。僕もまだ若かったのもあって、勝負をかけるタイミングだと思って必死にやったという感じでした。

――木曜9時という時間帯は、当時『ドクターX』がシーズン2まで放送されていた人気枠ですよね。

どうしても挑戦作は数字がとりにくいというのは地上波のプライム連ドラの大半なんですけど、若かったんで怖いものなしというか、ちょっと躁(そう)状態で「これだけの座組がそろえられたら挑戦しないとダメだろう」となっていまして(笑)。テレビマンの皆さん、キャリアの中で勝負時というのがどこかであると思うんですけど、僕にとってはここだったなと思います。ムチャもいっぱいしたし、立ち上げから終わるまでの舞台裏がドラマ以上にドラマチックでした(笑)

――例えばどんなドラマが…。

今は世帯視聴率の考え方がドラスティックに変わりましたが、当時はもう世帯視聴率至上主義だし、世帯の数字とらなかったら死ねっていう話でした(笑)。その中で初回はシングル(1ケタ)から始まったにもかかわらず、最高で16.7%(ビデオリサーチ調べ・関東地区、世帯/以下同)まで上がりました。これは本当に奇跡が起きたと思って。

初回にシングルを取ったのは理由があって、真裏の時間帯が『MOZU』(TBS)だったんです。WOWOWさんとの共同制作で、実質、我々の2~3倍の制作費の超大型企画で、そうそうたるキャストに羽住英一郎監督という布陣で、どう考えても勝てないと思って(笑)。いまだに忘れられないんですけど、事前に取材の日があって、「今クールで見たいドラマは何ですか?」っていう質問に、小栗くんが「いやあ、僕は『MOZU』超見たいです!」って、裏だとまだ分かってなくて言っちゃって(笑)。あとで放送時間が真裏だと知って「兼司くん、絶対勝てないよ…」とか落ち込んで言ってたのを思い出します。それでも制作チームとしては、自分たちが作るものを信じて熱狂しながら作っていったんです。

で、実際、フタを開けたら、初回はこっちが9.7%で、あちらが13.3%と下馬評通り…。プロデューサーって放送翌朝、視聴率の速報が出たらすぐに、いろんなところに連絡をしないといけないんですけど、小栗くんには電話で言うのもあれだから、一報はLINEかショートメールで送ったら、たしか「失踪します。探さないでください」って返ってきたはずです(笑)。木曜9時枠で当時その数字は、もう僕も社内で地獄でしたが、現場ではそんな顔見せられないんで、「作ってるものを信じよう!」っていう空気に徹して。そんなスタートの作品でした。

――でもそこから、どんどん数字が上がっていったわけですね。

2話も同じ数字で、3話から急に2ケタに上がって、そこからグイグイ伸びて逆転したんです。テレビの仕事をしていていろんな達成感があると思うんですけど、あのジャイアントキリングの快楽を超えるものはなかなかないのではと思います(笑)

――数字面ではない手応えというのは、最初からあったのですか?

やっぱり1話の反響で、ありがたいことに皆さんが「めちゃくちゃ面白い!」「すごい!」と言ってくださって。この経験はいまだに僕の根っこにあるんですけど、テレビドラマの場合、物語の力が信じられるものであれば視聴者の皆さんを引っ張っていけるという奇跡も起こるんだと、そういう貴重な経験でした。

――当時は現在ほどSNSも発達していない頃ですよね。

はい。何か宣伝で仕掛けるということもできてなかったですし、単純に作品のクオリティを上げることに皆で命を削ってたという感じでした。小栗くんも金城さんの書かれた脚本のクオリティに120%乗ってくれて、役者陣の皆さんがのめり込んでその役を生きるパワーがすごかったと思います。

プロデューサーっていろんなスタイルがあると思うんですけど、僕はテレビドラマのプロデューサー時代は現場に朝から晩までできる限りずっと立ち会う、というやり方がベストだと信じていました。それには強い理由があります。連続ドラマっていろんなことが起こるし、監督も話ごとに代わるから、1話から10話までずっと演じ続ける主演と一緒に並走できるのは、企画の中心を担い作家と一緒に脚本を作ってきたプロデューサーだけなはずなんです、本来は。そこまで必死にやらないと作品のクオリティを担保できなかったと今でも思っています。現場の熱狂とか、作り上げていくプロセスの部分での手応えは現場で感じていたので、今思い返しても、その熱は小栗くんを中心に圧倒的だったなと思います。

■今までにない環境をクリエイトする挑戦ができた『dele』

――そして、『dele』(18年7月期、※)でもまた挑戦をされたんですね。

(※)…依頼人の依頼を受け、死後に不都合なデジタル記録をすべて内密に抹消する仕事を生業とする2人が、任務を遂行しようとするたび、様々な問題に巻き込まれ、依頼人の人生とそこに隠された真相をひも解かねばならぬ状況へと追い込まれていくストーリー。

そうですね。『BORDER』と『dele』は、今までとは違う作り方で勝負した作品で、おかげさまで両方とも、「ギャラクシー賞」や「東京ドラマアウォード」といった賞を頂けました。報道志望で入った僕にとって、テレビの最高峰ってギャラクシー賞だったんですよ。社会的意義や文化的価値のある作品をきちんと作って、世の中に意義のある仕事をしたいと思っていたのが、まさかドラマで頂けるとは思ってなくて。うれしかったのは、『dele』はテレビ朝日の歴史の中でギャラクシー賞の優秀賞を連続ドラマでもらったのが初めてだったそうで、連続ドラマとして今までできなかった方法論で、深夜枠の限りなく少ない予算の中でやれたというのは、やり遂げたなという感じがありました。

――今までできなかった方法論というのは、どんな点でしょうか?

いわゆるテレビドラマ業界のいつもの制作スタッフではなく、映画やMVなど他ジャンルで活躍されている新しいベストな才能を集める。しかも、海外シリーズドラマレベルのクオリティを生み出すための今までにないベストマッチな座組を開発する。失敗を恐れずに、かなりコンセプチュアルに考えて環境も整えて、自分が連続ドラマで培ってきた作り方のノウハウと失敗経験からの学びをすべてを結集したという感じだったんです。音楽も脚本も監督も連ドラの環境ではあり得ない、いろんな方に集まっていただきました。

カメラマンは日本の映像界で若手ナンバーワンの名をほしいままにしている今村圭佑くんで、彼は初めて地上波の連続ドラマに参加してくれました。連絡先も分からなかったので、ネットで調べて所属先の会社にいきなり電話して、「お願いだから会ってくれ!」って口説きに行ったんですけど、「地上波のテレビは興味ないんです」「なんであんなルックなんですか?」と言われて。でも、「限られた予算の中でどんな制約があろうと、映像にかけるプロセスでやりたいことはできる限り実現させる」「いろんなジャンルから才能が集まって作るというコンセプトだから、一緒にやろう」と口説き落として来てもらったりして。そうなると、絶対に軋轢が生まれるんですけど、その軋轢も全部がっぷり自分ひとりで引き受けて、死ぬ気で調整していました。

――そこがまさにプロデューサーのお仕事ですね。

自分の例は特殊すぎてあまり自信を持ってそう言えないのですが(苦笑)。ただ、今までにない環境をクリエイトするという挑戦を、『dele』では一番できたかなと思っています。

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    (C)本多孝好・PAGE-TURNER / tv asahi

――その挑戦ができたのは、『BORDER』の実績や経験も大きかったのですか?

はい。ただ、やっぱり山田孝之くんと菅田将暉くんのW主演という奇跡が大きかったと思います。放送の2年以上前から企画を立ち上げたんですが、会社にも「キャスティング、本当だな?」ってずっと信じてもらえてなかったんで(笑)。でも、ツモった(決定した)と思ってる僕も、いつこの企画がなくなってもおかしくないと思いながらという緊張感がありました。

特に山田孝之くんという人は、今では戦友ですけど、彼の活躍を見ていると分かると思いますが、『全裸監督』(Netflix)しかり、作り方から全部コミットする人なんで、プロデューサー以上にプロデューサーのセンスと怖さがある。彼も、テレビドラマの作り方をいい意味で変えていきたいと思ってる人で、「クリエイティブファーストでなくなったら僕は降ります」と脅されていましたから(笑)。ポイントポイントで進捗を説明し、ディスカッションしに行くんですけど、その2年間は「山田孝之は降りる可能性がある」というプロデューサーとしては最悪なプレッシャーと(笑)、神経すり減らしながら勝負し続けている感じでした。

――放送の2年前から「デジタル遺品」というテーマに着目されたのは、相当早かったですよね。

その代わり、脚本を作るのがものすごく難しかったですね。特殊な設定だし、前例がないんですけど、題材ごとに幅広く取材をしなきゃいけないので。今の時代感とリンクしていないとテレビドラマにならないので、実際にあった事件とか、話題になっているトピックとか、そういうものをそれぞれの作家さんと2人でディスカッションしながらいっぱい取材して作ったし、ボツになったエピソードもいっぱいあります。当時、本多孝好さんも初めてドラマの脚本を書かれるということだったので、本当に脚本の作り方から一緒に並走しながら時間をかけて作らせていただいたという感じでした。

――この作品も、相当な熱量をかけて作っていたんですね。

カロリーとしては、今考えると普通の連ドラの3本分くらいはあったと思います(笑)