注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、『HITOSHI MATSUMOTO Presents ドキュメンタル』(Amazonプライム・ビデオ)、『痛快TV スカッとジャパン』(フジテレビ)などで演出を担当する和田英智氏だ。
そんな同氏が「自分の制作人生の中で一番足を向けて寝られない」という番組が『学校へ行こう!』(TBS)。V6の解散に伴って26日(19:00~)に『学校へ行こう!2021』として最後の放送を迎えるが、どんな心境で臨んでいるのか。“一緒に成長した”というV6への思いも含め、話を聞いた――。
■カミセン新番組or『虎ノ門』の選択
――当連載に前回登場した放送作家の竹村武司さんが、和田さんについて「芸人さんからもジャニーズの人たちからも信頼されている、なんでも面白くしちゃう変態です。トーク力がエゲつなくて、テレビマンじゃなかったら、天才的な詐欺師になってたと思います。あと和田さんのロケは天下一品で、『BAZOOKA!!!』の「坂田の乳吸い」は傑作なので、ぜひみなさんにも見てほしいです」とおっしゃっていました。
これは小池栄子さんの旦那さんの坂田亘さんが、「日本一のおっぱいを楽しめている男が世界の動物の乳を吸いに行く」っていうロケで、僕と坂田さんの珍道中になってるんですけど、たしかに面白いです。でも、これをやるには奥さんの許可をもらわなきゃいけないとなって、ドキドキしながら高い中華料理屋さんで小池さんに「今度、坂田さんの企画を撮らせていただきたいと思ってます。中身は、“日本一のおっぱいをお持ちの奥さんを楽しんでる坂田亘が、格闘家として復帰していく中で、その儀式として自然に立ち返るために、世界の動物のおっぱいを吸いに行く”というもので…」って言ったら、小池さんがケタケタ笑って「あーもう好きにしてください。亘くんは面白い人なんですけど、格闘家でそういう面がなかなか出せないから、バラエティのディレクターさんに面白く料理してもらえるんだったら、私のおっぱいなんてフリに使ってください」って言ってくれてたんですよ。もうカッコいい!と思って。当時すでに女優として大活躍されてて、バラエティにもなかなか出てくれないくらいだったのにそれを言ってくれたので、本当に小池栄子さんのファンになりましたね。
――この業界にはどのような経緯で入ったのでしょうか?
大学入るのに一浪して、留年までしてたから、一緒に遊んでる仲間が先にどんどん就職していって友達がいなくなるんですよ。大学の4年間って遊ぶにはこれ以上長いなとも思って、テレビ業界に興味があったんですけど、局員なんて中退じゃ受けられないじゃないですか。それで『フロム・エー』とか見るとAD募集が載ってたので、電話して派遣系の制作会社に入ったんです。バラエティをやりたかったんですけど、フジテレビの(島田)紳助さんとかがやってた“警察24時”の特番で、交番の警官と酔っぱらいのやり取りをひたすらコメント起こしするみたいな仕事とか、情報番組のADとかをやって1年くらい過ごしました。
――そこからどうやってバラエティに行くんですか?
中学からの同級生が、テレ朝系の編集所に就職してたんですよ。そいつはもう2年目とか3年目とかになっていて、『炎チャレ(ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!)』とか『パパパパパフィー』とかバラエティでバリバリ有名なディレクターと一緒に仕事してたんですね。そいつに、「お前ってバラエティのディレクター目指すんじゃなかったっけ?」って言われて現状を話したら、「スウィッシュ・ジャパンの人と知り合いだから、スウィッシュならバラエティの仕事に近づけるかもよ」って教えてもらったんです。スウィッシュって技術の会社として有名だから制作やってるって知らなかったんですけど、僕『めちゃイケ』(フジテレビ)が大好きで、ロケやってるって聞くとわざわざ見に行って、片岡飛鳥さん(総監督)をストーカーみたいに追いかけてたくらいなんで(笑)、『めちゃイケ』をやってるスウィッシュだったらそういう人たちと近い場所に行けると思って、「この作戦だ!」ってすぐ電話して面接したら、採ってくれたんですよ。
それでテレ朝の深夜で、TIMさんとジョーダンズさんがやってた『ヒメゴト』っていうどエロ番組にADで配属されたんですけど、そこに『炎チャレ』で演出やってる人が総合演出やディレクターでいて、「こういうこと!こういうこと!」ってもうワクワクするんですよ。で、その時の番組デスクが『炎チャレ』の近くで、そこにいるフリーのディレクターとかから「ちょっとタバコ買ってきて」って言われて、使いっぱしりとして顔を覚えてもらえるようになるんです。
――まさに作戦通りですね。
そんな中で『ヒメゴト』が終わるんですけど、僕、当時はスタジオのフロアの回しが上手だって褒められてて、それを知ってなのか分からないんですけど、板橋(順二)さんに呼ばれて、「『虎ノ門』って新番組やらないか?」って誘ってもらったんです。金曜の夜中に3時間の生放送だったんですけど、僕『オールナイトフジ』(フジテレビ)が好きで、自分がやりたい番組でディレクターができるかもしれないって思ってたら、『炎チャレ』をやってた藤田(賢城)さんが『学校へ行こう!』(TBS)もやってて、「新しくカミセンで番組をやるから来ないか?」って言われちゃったんですよ。『オールナイトフジ』っぽい夜中に芸人さんとワチャワチャ好きなことやれる生番組と、当時(世帯視聴率)20%とってるゴールデンど真ん中の人気番組からの派生番組のどちらかを選ばなければならなくなってしまって。
――これはなかなかの2択ですね。
そうなんですよ。で、藤田さんってルックスもめちゃくちゃカッコよくて女にモテて、当時『炎チャレ』以外にも『内P(内村プロデュース)』(テレビ朝日)とかもやってるイケイケで、日本で一番のディレクターだと思ってたので、そっちを選んだんです。
それで始まったのが『ミミセン!』でした。最初は奇数回が藤田さん、偶数回が坂井(美継)さんという方が担当する体制だったんですけど、#2で6分の短いVTRを作らなきゃいけないとなったときがあって、藤田さんに「お前、この番組でディレクターやったほうがいいんだから、作ってみるか?」って言ってもらえて、自分なりに台本もナレーションも書いて会議に出してみたんですよ。当時の会議にいた放送作家さんが、おちまさとさん、都築浩さん、中野俊成さんというトップの3人だったんですけど、藤田さんが遅れて来るというので、僕が書いた台本を見ながら待ってたんですね。それで藤田さんが来たら、3人が「この台本いいね」って言ってくれて、僕が「自分が担当することになって書いてみました」って言ったら、「このままでいいじゃん」ってなったんですよ。
――おお~!
そしたら藤田さんも安心して、#3の放送からディレクターにしてくれたんです。だから、結局『ミミセン!』で藤田さんは#1しかディレクターやってないんですよ。
――それってバラエティ番組に就いてどれくらいですか?
『ヒメゴト』が半年くらいで終わって、そこから『ミミセン!』に移ってすぐでしたから1年経ってないですね。そこから、『学校へ行こう!』という流れになるんですけど、当時の『学校へ行こう!』は、立ち上げメンバー以外は『学校へ行こう!』でADをやった人しかディレクターにしない、外からは採らないっていう方針があったんですよ。でも、『ミミセン!』のプロデューサーの藤岡(繁樹)さんと藤田さんが僕を『学校へ行こう!』でやらせたいと考えてくれて。当時は、田代秀樹さんがプロデューサーで、江藤俊久さんが総合演出だったんですけど、田代さんは江藤さんを信頼してたので、江藤さんに気に入られれば田代さんに「外からだけど採りませんか?」ってプレゼンができると。なので、江藤さんの別の特番でやらせて、そこでハマれば『学校へ行こう!』に入れられるかもしれない、と藤岡さんと藤田さんが画策してくれたんです。
――また新たな作戦が。
ユースケ・サンタマリアさんとキャイ~ンさんの特番(『キャイ~ン&ユースケ炎の恋愛バトル』)だったんですけど、それをやることになって。またその会議の江藤さんって、『学校へ行こう!』で毎週20%とってるからめちゃくちゃイケイケで、台本とか構成もディレクターや作家が口を挟める空気じゃなかったんですよ。江藤さんが画作りからナレーションから何もかも決めて、話すことをADがメモっていくんですけど、僕の担当ネタを江藤さんが「こういうふうにしてくれ」って言ったときに、僕は「江藤さんすいません、このオチにしたいんですよね。そしたらここのフリは違くないですか?」って答えたんです。そしたら江藤さん、4~5秒黙った後に「お前、できるね」って褒めてくれたんですよ。それでハマって、『学校へ行こう!』に入ることになるんです。
■名物企画「B-RAPハイスクール」誕生秘話
――和田さんは『学校へ行こう!』で「B-RAPハイスクール」(※1)を担当されていたんですよね。
(※1)…ラッパーを発掘するコーナー。「軟式globe」などの名物キャラクターが生まれた。
『学校へ行こう!』って「未成年の主張」とかいろんなコーナーがあって、だいたいは複数のディレクターが持ち回るんですけど、「B-RAP」は頭から最後まで僕しかやってないんです。だから、胸張って「僕のコーナーです」って言える感じです。
――どういうきっかけで生まれたコーナーなのですか?
『学校へ行こう!』のディレクターになったものの、急にゴールデンの看板コーナーは任せられないので、最初は藤田さんがやってる森田剛くんが「ちびあゆ」と曲を出すプロジェクトとかでサブディレクターという感じでやってたんですよ。でも、どこかで自分のコーナーみたいなのをやらないといけないと思って、学生時代からヒップホップとか大好きだったので、ラップバトルみたいな企画書を書いたんです。通常、ディレクターが“宿題”を提出することはないんですけど、ちゃんと前向きな姿勢を見せておかなきゃと思って。でも、当時の会議にはおちさん、都築さん、樋口卓治さん、村上卓史さん、すずきBさんという有名な作家さんばかりで、僕の出した企画は会議資料の一番下に入れられるんですよね。
そんな中で、おちさんが急に「そろそろラップに手を出してみるのもありじゃない?」って偶然言ったんです。そしたら、江藤さんは真面目な人だから、僕が企画を出しているのを先に見てて、「そう言えば和田も今日ラップの企画出したよね?」って言ってくれて、「作家さんとディレクターのタイミングが合ったんだから、和田もうちょっと考えてみてよ」ってなって。それで、樋口さんが担当作家になって、あーでもないこーでもないと言いながら「B-RAP」が生まれて、ヒットしてくれたんですよ。
――1回目のOAから手応えはあったのですか?
手応えが出てきたのは2回目か3回目くらいからですね。最初は普通に撮ってスタジオもウケたんですが、会議で「PVみたいに固定カメラっぽく撮ったほうが面白そうだな」という話になって、定点カメラを使うようになってから人気がドーンと行きました。だから、2回目からセンターに定点カメラがあって、その前に人がやってくるみたいな流れになったんです。比較的すぐに自分のコーナーが持てて、それがヒットしたので、早めに『学校へ行こう!』でデカい面できるようになりました(笑)
――それは自信になりますよね。
当時、ティーンで30%視聴率とってたので、すごいことになってたんですよ。編集明けに、朝電車で寝て帰りたいから、東京駅まで行ってそこから中央線に乗ってたんですけど、その時間に通学する女子高生が僕の前に来て、昨日の「B-RAP」の話をしてるっていうのが最高の子守唄でしたね(笑)
――そのヒットで、また仕事が広がっていくんですね。
僕、ディレクターが黙ってる会議でもベラベラしゃべるし、大御所作家さんにも日和らず雑談するタイプだったので、皆さんにかわいがっていただいて、「B-RAP」やりながら、CP(チーフプロデューサー)の合田(隆信)さんに『(爆笑問題の)バク天!』やるときに呼んでもらって、おちさんには『グータン』(カンテレ)に呼んでもらって、急に金持ちになりました(笑)