注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、『チコちゃんに叱られる!』(NHK)、『人生最高レストラン』(TBS)、『HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル』(Amazonプライム・ビデオ)などを手がける小松純也氏だ。
フジテレビから共同テレビ、そしてフリーへと立場が変化し、地上波、BS、配信、さらには教育プラットフォームまで、幅広いコンテンツを手がける同氏。そんな中で、テレビの制作者が「何でも作れる状況にしたほうが、すごく合理的だと思います」と考えるようになったと語る――。
■『チコちゃん』の背景にある『トリビアの泉』の反省点
――当連載に前回登場したABCテレビの芝聡さんが、小松さんについて「僕の原体験である『ごっつ』を担当されてて、フジテレビさんから共テレ(共同テレビ)さんに行かれて『チコちゃん』や『人生最高レストラン』などヒット作を生み出し、さらに独立されるという、局員の新しい道を示されてる存在だと思います」とおっしゃっていました。小松さんにとっても、『ダウンタウンのごっつええ感じ』は原点ですか?
そうですね、原点ですね。この前、『キングオブコントの会』(TBS)で、松本(人志)さんと20年ぶりにテレビでの大きな規模でコントを撮ったんですが、「そういえばこうだったなあ」という感じが現場でもいっぱい蘇りましたね。
――最初にダウンタウンさんとご一緒されたのは『夢で逢えたら』ですか?
そうです。ダウンタウンさんとウッチャンナンチャンさんに良くしていただきました。スタッフにいろいろ教えてくれるのはダウンタウン、ウッチャンナンチャンはそれを支えてくれる優しいお兄さんたちという感じでしたね。『ごっつ』の初期の頃は、浜田(雅功)さんはカンペの出し方1つにしても教えてくれましたし、松本さんには作家さんが書いたコントの設定を相談しに行くという役割をADの僕がやっていて、最初は箸にも棒にもかからない感じで、いろいろ怒られることもありましたが、松本さんがだんだん僕の言うことにも笑っていただくようになったりしてくれたのを覚えています。今回、松本さんのコントを撮るのは20年のブランクがありましたが、現場での松本さんの感覚をあまりずれなく具現化できたかなと感じることができたのは、そういうプロセスがあったからかなと思います。
――それから、ダウンタウンさんに限らず様々な番組を制作されてきましたが、フジテレビを退社されるときのコメントで「フジテレビはハッピーであること、そこに愛があるのか?ということを本当に大切にする会社です」とおっしゃっていたのが印象的でした。小松さん自身も、強く意識されていた部分だったのでしょうか。
根本的に、人の不幸を見て溜飲を下げるというベースでものは作らないということ。映っているものに対して愛情をもって接するということは意識していました。『日本のよふけ』なんて番組は本当にいろんな方に出てもらいましたが、自民党の人でも共産党の人でも、あるいはマグロの漁師さんでも、登場する人たちの人間的に素敵なところは何だろうという目線で切り取る。そういうスタンスは、自分としても一貫していたと思います。
もっと大きく言えば、フジテレビの編成にいましたので、大量の企画を選定するとき、当時はいわゆるリアリティショー的なものがどんどん出てきた時期でもあったのですが、人の不幸を見てどうとか、人間の醜いところを見たいと思わせる番組の企画が却下されるところを、フジテレビの編成で何度も見ました。そういうことがいっぱいあったのを、肌で感じていました。
――そうして共同テレビに出向され、『チコちゃんに叱られる!』(NHK)がヒットになりました。レギュラー化されて3年になりましたね。
おかげさまで安定してきました。最初はエキセントリックな表現で話題になりましたけど、人の目は慣れてくるもので、それがだんだん当たり前になってきた中でやっているという感じになりました。あの番組は本当にネタが尽きないので、まあ楽しんでやってますね。
――小松さんが監修で携わっていた『トリビアの泉』では、ネタが尽きてしまったという話を以前伺いました。
ネタの扱い方のバリエーションが違うんです。『トリビア』は“トリビア的な演出”にこだわっていたので、ネタがあってもそこに噛み合うかどうかで取捨するということが起こってしまったと、傍から見て思いました。『チコちゃん』はそこが反省点として残っていたので、ネタの扱い方にいろんなパターンを作って、いまだに新しいやり口を開発し続けるというのをやってます。NHKさんは『NHKスペシャル』や『プロジェクトX』から『きょうの料理』まで、リソースがすごくあるので。この番組は世代をまたいでいろんな人に気軽に見ていただけるというのを一番に作っていますので、できるだけ長く続く番組になりたいなと思いますね。
■「僕、38歳のときに一旦引退してるんです」
――そして、今度は独立ということになっていくのですが、やはり制作現場に生涯現役でいたいという思いからなのでしょうか?
そこまで自分の意志で自分の人生を決めたことはないので、全部流れに乗ってという感じではあるんですけどね(笑)。僕、38歳のときに一旦引退してるんです。2005年に笑福亭鶴瓶さんが総合司会をされた『27時間テレビ』が終わって、制作を離れて編成に行って、またバラエティ制作に戻ってきたけど管理職になって、スカパーに行ってまた制作で管理職をやって…と。その間に、編成でも企画を作ったし、バラエティの管理職でも企画の調整とか根っこを発案して後は現場の若い衆にやってもらうということはあったのですが、マネジメントというのはそれなりに面白さややりがいもあるものの、それをやってるときに「俺、月並みだな」と(笑)。伝票にハンコを押すのに、今まで自分が蓄積してきたものが役に立つのかなとか思ったり、予算削減の切り詰めも現場の事情が分かってるからやれることもあるし、逆にやりづらいこともあるし…。
そういう中で、当時フジテレビは視聴率が下がってきていたという状況もあったので、自分がバッターボックスに立ってバットを振ったほうが会社の役にも立つんじゃないかと思って、もう1回制作をやりたいなとなんとなく思っていたところに、上司だった港(浩一)常務が共同テレビの社長になることが決まって、港さんは会社に「バラエティ制作の中から何人か連れて行っていいぞ」と言われてたんですね。それで、部長だった私が、誰を連れて行くかという相談をメシ屋で受けるんですけど、そこで「俺じゃ、ダメですか?」と言ったんです。「お前が!?」って港さんびっくりしてましたけど(笑)
――まさか相談相手が(笑)
でも、実はそのメシ屋に行く前に、妻には「共同テレビに行きたいって言うかもしれない」と言ってて、「好きにすれば?」と言われていたんです。それで、バラエティの管理職から実際に番組が作れるところに戻していただいたんですけど、意外と他局からいろいろご指名の仕事が入って、フジテレビで活躍するつもりがそうでもなくなってきて、道がだんだん逸れて行っちゃった感じですね(笑)
■ストレスフルな状況打破へフリーに
――そこで、共テレから独立するという決意をされたのは、どういった背景があったのでしょうか?
共テレに在籍してはいるんですけど、結局フジテレビからの出向なんですよね。フジテレビって優しい会社だから、僕がNHKやTBSやAmazonで番組をやって調子良かったら「良かったな」って言ってくれるんですけど、いざとなったら僕がいつまで共テレにいるか分からないじゃないですか。そうすると、いつもご一緒してるレギュラー番組のチームは、前提として長いお付き合いをしたいと思ってくださっている方々ですし、さらに言えば「5年かけてこんなことやろう」とか、ロングスパンの仕事のオファーもあったりするわけです。そうやっていつ本社に呼び戻されるかも分からない立場を続けていくことが、目の前で日々向き合っている人たちに申し訳ないという気持ちがずっとあるし、彼らも「いつかいなくなるんじゃないか」とどこかで思ってる状況が非常にストレスフルになってきたというのが、一番大きいですね。
――売上も大きいロングスパンの仕事を、躊躇せざるを得ないと。
そうなんです。それで悩みましたね。でも、フリーになっても共テレの仕事は発注元との向き合いも基本的に僕がやっているので、引き続き共テレの売上にも貢献できていると思います。