注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。
今回の“テレビ屋”は、数多くのバラエティ番組で構成を手がける放送作家・そーたに氏。各局でレギュラー番組を持つ立場から見たヒットメーカーたちの印象や、業界が抱える危機感なども語ってくれた――。
自分のやりたいことをやる
――当連載に前回登場した『関ジャム 完全燃SHOW』演出・プロデューサーの藤城剛さんが、そーたにさんについて「自分が面白いと思ったものを番組にぶつけながらも、視聴者最優先で中身を考えてらっしゃいます。当たり前のことのように聞こえますが、長年ブレない姿勢が今でも各局で人気番組を担当されてる秘けつなのでは」とお話しされていました。
テレビ局がみんな「数字数字」って言うし、まあ実際、取れなきゃ終わっちゃいますから、僕も一応、番組の毎分視聴率を見て分析してはいますけど、基本的には自分のやりたいことをやろうと思ってますよ(笑)。自分が面白がれないことを視聴者にお見せするのは失礼だし。『関ジャム』だと、僕は音楽に全然詳しくないけど、だからこそ「こんなことを知りたい」っていうのは山ほどある。このテーマだったら、こういう流れがいいんじゃないかという設計図を、まず会議で、みんなで作ります。それを元に音楽班の人がアーティストの方にものすごい時間をかけて取材したり、アンケートを取ったりして、設計図に当てはめます。それを演出の藤城くんと僕ら作家が素人目線で見て、本当に流れがこれでいいのか、伝わるのか、細かく構成を直していきます。なんて偉そうに言ってますけど、僕、いまだにコードとかよく分かってないですからね(笑)
――あれだけ番組で音楽を分析してるのに(笑)
自分がなぜあの曲を聴いて感動するのか、惹かれるのかということを知りたいんですよね。そうすると、プロの方が「こういう秘密があるんですよ」と教えてくれるので、そうだったのか!と、それはすごく気持ち良いですよ。
――『関ジャム』は7月8日の放送で、関ジャニ∞の渋谷すばるさんが最後の出演となりましたが、番組初となった生放送のスタジオはどんな雰囲気でしたか?
以前から、僕はよく会議で「渋谷くんって、人の話を聞いてる時、いつも目がキラッキラしてるよね」と言ってたんですけど、脱退のニュースを聞いた時、「あっ」と思いました。音楽をリスペクトする番組だから、その先にそんな決断があったのかと正直複雑でした。だから、最後の姿は目に焼き付けておこうと思って、生放送も立ち会いました。スタジオは気持ちよく送り出してあげたいという空気にあふれてたと思います。
人との出会いの運が良かった
――放送作家にはどのような経緯でなられたんですか?
出身が田舎だったので、民放がTBS系列とフジテレビ系列の2つしかなかったんです。おまけにフジ系列は映りが悪くなったりして、しかも夜9時までしかテレビ見ちゃいけないという家だったから、テレビには飢えてましたね。それから高校生のときに(ビート)たけしさんが好きになったんですよ。高校の頃って、得体のしれないコンプレックスを抱いていて、その時にたけしさんの本を読んだら「自分はコンプレックスの塊だ」と書いてあって、そんなたけしさんがどんどん活躍していくのを見てすごく勇気をもらいました。それと、単純にメチャメチャ面白かったですよね。『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)にどんどんハマっていきました。
元々は学校の先生になろうと東京の大学に来たんですけど、弟が『(天才・たけしの)元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)で放送作家を募集してると教えてくれて。企画を送ったらオーディションに呼ばれて、そのときにちょうど教育実習があったから、心がグラングラン揺れ動きましたね(笑)。実習先の最後の授業で「先生は、本当は放送作家になりたい。みんなも夢を持つように」と言ってしまい、この人は何をしにきたんだろうという感じになってました。
――結果、そのオーディションを通って、プロとしてデビューすることになったんですね。
(『元気が出るテレビ』総合演出のテリー)伊藤さんの下に入って、当時、伊藤さんがいたIVSテレビ制作の番組に僕ら若手作家が振り分けられたんです。僕がラッキーだったのは、伊藤さんに気に入ってもらえて、『元気が出るテレビ』のほかに、同じく伊藤さんが演出の新番組『コムサ・DE・とんねるず』(フジテレビ)、『ねるとん紅鯨団』の前身の『上海紅鯨団が行く』(関西テレビ)の3本を秋からやることになったんです。
――そこから、担当番組が広がっていくんですね?
でも、伊藤さんに番組は3本までしかやっちゃダメって言われていたんです。半年後、うちの1本が終わり、2本になっちゃって、結構カツカツの時代が続きました。特に『元気』は作家もロケや編集所に帯同だったから、放送が1回しかない月、計算したら時給100円でした(笑)。時はバブルなのに(笑)。その後、日本テレビの吉川(圭三)さんから伊藤さんに「伊藤さんとこの若い作家を使わせてほしい」とオファーがあって、吉川さんとも仕事をさせてもらえることになるんですけど、それを知った別の局から同じオファーがあった時は、伊藤さん、「頭脳流出だから断る」って断っちゃって。僕だけナイスタイミングでした(笑)。そこから、日本テレビの他の番組も少しずつやるようになって、なんとなく“3本ルール”も消していきました(笑)
――ターニングポイントになった番組や企画はあるんですか?
僕にとっては、番組や企画というよりも、人との出会いの運ですね。伊藤さんに育ててもらったことに始まり、吉川さんとは『世界まる見え!テレビ特捜部』『笑ってコラえて!』『特命リサーチ200X』をやらせてもらって、初期の頃『元気』をやられてた土屋(敏男)さんとは『電波少年』や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』、同じく『元気』の財津(功)さんとは『とんねるずの生でダラダラ行かせて!!』『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』、五味(一男)さんとは『マジカル頭脳パワー!!』『投稿!特ホウ王国』といった感じで、ヒット番組を手がける人と出会う運が良かったんだと思います。
――90年代の日テレ黄金時代の中心の皆さんですね。
本当にラッキーでしたね。その後テレ朝でも仕事をするようになって、『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー』で、澤(將晃)さん、平城(隆司)さん、板橋(順二)さんらにお世話になりました。ネオバラ(23時台バラエティ)をたくさんやるようになり、『ナイナイナ』で加地(倫三、『アメトーーク!』『金曜★ロンドンハーツ』GP)くん、『ぷらちなロンドンブーツ』きっかけで藤井(智久)さんに出会いました。