その後も"150年のDNA"は引き継がれます。高度成長が達成された後の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争で原油価格が一気に3倍に跳ね上がり、日本への石油の供給途絶という危機に見舞われたのです。石油のほぼ100%を輸入に頼る日本にとって深刻な事態でした。
石油危機によって翌年の消費者物価上昇率は年平均23%を記録し、「狂乱物価」という言葉が生まれました。その一方で、経済成長率は戦後初めてマイナスに転落し、インフレと不況が同時進行する「スタグフレーション」となりました。
政府は国民に省エネを呼びかけ、テレビ各社は深夜の放送を休止、夜の繁華街ではネオンも自粛となりました。当時、日本列島が地震によってすべて沈むという小松左京のSF小説『日本沈没』がベストセラーになりましたが、現実の経済が「日本沈没」の瀬戸際に立たされたのでした。
その頃、私は日本経済新聞に入社して間もない新米記者として、松山支局に赴任していました。愛媛県東部には数多くの製紙メーカーが立地していましたが、紙の製造工程で燃料として大量の重油を使うため、その値上がりで各社は減産に追い込まれました。そのためトイレットペーパーなどが品不足となるなど、パニック的な騒ぎが各地で起き、私も取材で走り回りました。
紙の減産は、日本経済新聞をはじめ新聞各社にも影響が及びました。製紙メーカーから新聞用紙の供給を削減され、各社とも新聞のページ数を半分近くに減らさざるを得なくなったのです。
さらに昭和54年(1979年)にイランでイスラム革命が起きたことから、第2次石油危機が起きました。石油の価格がさらに3倍(第1次危機の前からは約10倍)となり、世界経済は再び不況に陥りました。
ところが意外なことに、石油のほぼ100%輸入に頼る日本より、石油自国生産もある欧米のほうが不況が深刻でした。米国は第1次危機と第2次危機でそれぞれ2度マイナス成長に陥り、失業率も大幅に上昇しました。歴史的に見ても、米国経済が最も悪化した時期となりました。
しかし、日本のマイナス成長は第1次の際の1974年だけで、第2次の際は成長率は鈍化したもののプラスを維持しました。政府や各企業が石油危機を乗り越えるため、省エネ技術を向上させ、省エネ体質の経済構造を作り上げたからです。これもまたピンチをチャンスに変える、"150年のDNA"が発揮されたものと言えるでしょう。
特に自動車メーカー各社は、エンジンの燃焼効率向上と低燃費の新車開発に取り組みました。その結果、米国で日本車への評価が高まり、一気に日本車の対米輸出が増えたのです。これに対し、米国自動車業界が反発して、今度は貿易摩擦に発展しましたが、日本の自動車各社は米国での現地生産を開始、円高への対応も加わって、規模を拡大していきました。自動車業界と言えば、いまではグローバルな事業展開の代表例ですが、石油危機と貿易摩擦や円高を乗り越える努力が、その飛躍のきっかけを作ったのです。
「過度な悲観論」から脱して、「日本の底力」に自信を持とう!
以上のように日本経済は危機に直面し、それを乗り越えることによって強くなってきた歴史を持っています。これが"150年のDNA"であり、日本経済の底力の源泉なのです。本連載では、日本経済の本格復活に向けた新しい動きが起きていることを見てきましたが、これも"150年のDNA"の力が発揮され始めていることを示しています。
日本経済には少子高齢化・人口減少など課題が多いのは事実ですし、国際情勢も、まだまだ予断を許しません。しかし、それにしても長年の経済低迷が影響しているのか、現在の日本人は物事を実態以上に悲観的に考えるクセがついてしまっているように思えます。多くの人がそうした「過度な悲観論」から脱して、「日本の底力にもっと自信を持とう!」と強調したいと思います。
"150年のDNA"――これがある限り、危機は乗り越えられるはずです。令和の時代に日本経済は、必ずや本格復活を遂げるものと確信しています。