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【答え】ヤマハ「FZ750テネレ」
正解はヤマハ「FZ750テネレ」(Ténéré)でした
FZ750テネレは1986年に登場したパリ・ダカールラリー専用のマシンで、オフロードモデルとしては異色の4気筒エンジンを搭載していました。このモデルの誕生には“ミスターヤマハ”と言われた情熱的な1人のフランス人が関係しています。
ヤマハとダートレースの歴史は1970年代に登場した単気筒の「XT/TT500」から始まります。このモデルは名車「SR400/500」のベースとなっただけでなく、1979年に始まったダカールラリー(旧オアシス・ラリー)で2連覇するなど数々のダートレースですばらしい成績をおさめました。その後もヤマハは排気量アップした「XT600 テネレ」で参戦していましたが、年々高速化するパリダカでは2気筒エンジンを搭載したBMW「R80G/S」の後塵を拝することになります。
当時のヤマハはレース用に使える2気筒エンジンを持っていなかったため、フランスの有力チーム「ソノート・ヤマハ」を率い、自らもライダーとしてパリダカに参戦していたジャン・クロード・オリビエ氏は、ロードスポーツ「FZ750」の4気筒エンジンを搭載した試作車を自ら作ってしまいます。これをヤマハに持ち込んで説得し、その熱意に動かされてヤマハが製作したパリダカ専用マシンが「FZ750 テネレ」だったというわけです。
1気筒あたり5バルブを持つ最新ロードスポーツの「FZ750」用エンジンは94馬力という圧倒的なパワーを発揮しましたが、砂地でのトラクション不足やパリダカマシンとしては非常に重い197kgの重量などが影響し、残念ながらFZ750テネレは12位でレースを終えました。翌1987年もオリビエ氏は排気量アップと低速性能を向上した「YZE920テネレ」で挑みますが11位で、チームメイトのS・バクー選手の7位が精いっぱい。しかし、この過酷なチャレンジは無駄ではありませんでした。
オリビエ氏の熱意に奮起したヤマハはFZ譲りの5バルブを持つ並列2気筒エンジンを開発し、これを搭載した「XTZ750スーパーテネレ」を1989年に市販します。そして1991年、この市販車をベースにしたパリダカ専用マシン「YZE750Tスーパーテネレ」が1位から3位までの表彰台を独占するという快挙を成し遂げます。ヤマハにとって10年ぶりの優勝でしたが、その後も1993年まで3連覇を続けるという偉業を達成しました。
4気筒のFZ750テネレはパリダカで活躍できませんでしたが、このマシンでトラクションの重要性を学んだヤマハは「270度クランク」というアイデアを生み出し、テネレをはじめとした2気筒エンジンをさらに進化させます。これは「クロスプレーンコンセプト」として再び4気筒のオンロードにもフィードバックされ、MotoGPのレーシングマシンや市販モデルにも採用されて大成功をおさめています。
また、パリダカに情熱を燃やしたオリビエ氏は、オン/オフを問わず1970年代からフランスの「ソノート・ヤマハ」のレース部門で手腕を発揮し、数々のチャンピオンライダーを輩出しました。ヤマハのバイクは「ブルー」のイメージが強いですが、このカラーもオリビエ氏が率いていた「ソノート・ヤマハ」や、メインスポンサーとなったたばこブランド「ゴロワーズ」が関係していると言われています。
オリビエ氏は1992年から2010年までヤマハ・モーター・フランスの社長に就任し、紳士的で優れたビジネスマンとして従業員からも敬愛されていましたが、一方で在任中もパリダカへの熱意が冷めることはなく、自らハンドルを握って2年連続で参戦しています。不幸にも2013年に自動車事故に巻き込まれて亡くなりますが、突然の訃報にフランス国内外のヤマハやレース関係者のみならず、オートバイを愛する世界中の人たちが悲しみ、追悼の声が寄せられました。
「テネレ」はサハラ砂漠中南部の地名ですが、アフリカ遊牧民が使うトゥアレグ語では“何もない場所”を意味する言葉だそうです。現在もヤマハ製アドベンチャーモデルの名称として継承されていますが、そこには勝てるエンジンがなくても不屈の精神で道を切り開き、ついにはヤマハに栄冠を与えたオリビエ氏の魂も込められているのではないでしょうか。
それでは、次回をお楽しみに!