――2001年には現局長の西田敏行さんが就任されました。このことで番組に変化はありましたか?
上岡局長の時代よりも、人間の弱い部分を晒すような依頼が増えました。上岡さんはズバリと言う人なので、弱さは見せられないというイメージがあったのかもしれません。一方、西田さんは人に寄り添う局長。自分の恥をさらけ出すことになるような依頼でも、西田局長なら親身になって解決してくれるという意識に変わってきたように思います。
――先ほど言われた“相談ごと”も、より依頼しやすくなったと?
今年の春、過去の依頼の中から視聴者投票でベスト10を決める特番(『30周年記念! 探偵!ナイトスクープオールタイムベスト10』)をやりましたが、そこで1位になった「10年以上口をきいてない父と母」(13年放送)は、依頼者の両親がまったく会話をしなくなった理由を探ってほしいという、他人にはなかなか言えない家庭の事情を相談するようなネタ。これも西田さんが局長だからこその依頼だったんじゃないでしょうか。
――西田さんはよく感極まって号泣されていますし、情に厚いお人柄が画面からも伝わってきます。
実は上岡さんも泣かれたことがあったんですよ。これを言うとご本人は嫌がるかもしれないけど、僕らはそんな上岡さんも知っています。涙を見せなかった理由は「ズバリと言う人間は泣いてはいけない」という上岡さんの男の美学があったからだと思います。
先ほども申し上げた通り、30年前には、歯に衣着せずズバリと言う人がテレビ界にほとんどいなかった。でも今は違います。“怒る人”が多いでしょう? 人を厳しく非難したり、知性で押し込んだり、なんでも上からの時代です。そんな中で、西田さんのように隣に寄り添うようにして“泣く人”は貴重な存在です。つまり僕らは、上岡さん、西田さんとその時代の貴重な人だけをリーダーに据えて番組をやってこられた。これはとても幸せなことです。
“天才”に出会えなかった平成
――『ナイトスクープ』とともに歩んでこられた平成は、松本さんにとってどんな時代でしたか?
この30年、ニュースや情報番組は進化してきたと思いますが、バラエティ番組、ことお笑いバラエティに関していえば、進歩はなかったのではないかと感じています。『ナイトスクープ』でプレゼンのスタイルやテロップの新しい使い方を始めましたが、それ以降は新しいものが生まれていない。
これを象徴するのが、平成に昭和を凌ぐお笑いタレントが1人も出現しなかったということ。たとえば、“BIG3”と言われるタモリさん、ビートたけしさん、明石家さんまさん、その下の世代のダウンタウンにしても、昭和の時代に現れた人たちです。タレントで言えば“笑い”は進化していない。顧問として何度もご出演いただいているたけしさん、そして松本人志さんも好きな番組として『ナイトスクープ』を挙げてくれています。つまり、彼らの“笑い”のライバルはタレントではなく、『ナイトスクープ』なのだと僕は受け取っていますし、それを誇りに思っています。
――昭和はテレビから新しい才能が次々と生まれた時代でもありましたね。
テレビを作る側にも天才はいました。朝日放送の僕の先輩にも2人の天才プロデューサーがいて、1人はドラマ“必殺シリーズ”の生みの親である山内久司さん。もう1人は『てなもんや三度笠』(62~68年)などの公開バラエティをヒットさせた澤田隆治さん。お2人が作る番組を、僕は浴びるように見てきました。
――革新的なものを世に送り出した先人たちに、松本さんご自身が刺激を受けてきたのでしょうか?
そうですね。この天才たちに僕は育てられたと思っています。ですが平成の30年間には、残念ながら、僕の尻を叩いて鼓舞してくれるような巨大な天才には出会えませんでした。だからこそ、平成の次の時代には、新しく生まれてくる才能に期待していますね。天才の出現を楽しみにしています。