前号で見た通り、小渕内閣の景気対策とITバブルによっていったんは景気が回復した日本経済でしたが、ITバブルはあっという間に崩壊し、日本経済は不況に逆戻りしてしまいました。こうした中、病に斃れた小渕首相の後を森首相が受け継いだものの1年で退陣、その後に登場したのが小泉純一郎首相でした。
構造改革なくして景気回復なし
小泉氏は、森首相の退陣表明を受けて平成13年(2001年)4月に実施された自民党総裁選で勝利して首相の座に就いたのですが、もともと本命視されていませんでした。それまで2回の総裁選で立候補していましたが、大差での敗北に終わっており、この時の総裁選でも当初は最大派閥・橋本派(旧田中派-旧竹下派-旧小渕派)を率いる橋本龍太郎元首相が圧倒的に有利と思われていました。ところが選挙戦が始まると小泉氏は「自民党をぶっ壊す」「構造改革なくして景気回復なし」と叫んで「小泉旋風」を巻き起こし、地すべり的勝利を収めたのでした。
小泉氏は首相に就任すると、その言葉通り、従来の自民党と違う新しい政策と手法で不況脱出に取り組み始めます。それまでの自民党政権は、不況になると公共事業を中心とする景気対策を打ち出してきました。それによって景気を一時的にテコ入れする効果はあったのですが、しばらくすると再び悪化するということを繰り返し、日本経済は本格的に立ち直ることができないでいました。
バブル崩壊によって体力そのものが弱ってしまった日本経済を立て直すには、時代に合わなくなった制度や仕組みなど日本経済の構造そのものを変える必要があるというのが小泉首相の考え、というより信念でした。これがあの「構造改革なくして景気回復なし」との言葉となったわけです。
金融機関の不良債権処理を促進
小泉内閣がまず着手したのが、金融機関の不良債権処理を促進することでした。
当時の日本経済において、不良債権問題は最大の構造問題となっていました。すでに平成10年(1998年)の金融安定化法などの成立後に大手銀行への公的資金注入が実施され、各銀行は不良債権の処理を進めていました。
しかしそれでも不良債権はなお膨大で、小泉内閣発足の翌年の平成14年(2002年)3月期には全国銀行の不良債権総額は43兆2,000億円、不良債権比率(貸出総額に占める割合)は8.7%に達していました。人間の体に例えるなら、金融は血液のようなもので、不良債権によって血管が詰まり血液がスムーズに流れない状態だったと言えます。
その不良債権処理促進を強力に推し進めたのが、小泉内閣で経済財政担当大臣に就任した竹中平蔵氏でした。大臣就任前は慶應義塾大学教授だった竹中氏は、90年代からテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」のコメンテーターも務めていました。
その頃、筆者は同番組を担当していましたので、大臣に就任した竹中氏の動向を注視していましたが、学者出身とは思えないような指導力を発揮します。翌年には金融担当大臣も兼務となり、各銀行の不良債権残高を半減させる方針を打ち出して、その実現を金融界に強く迫りました。
さらに当時は、不良債権の実態が十分に公表されていなかったことが金融不安を解消しきれない一因となっていました。このため竹中大臣と金融庁は公的資金、つまり国民の税金を銀行に注入する立場から、不良債権の実態についての検査も強化しました。
金融界はこうした方針は強引だとして反発し、感情的な対立も生まれました。その頃、ある大手銀行に金融庁が検査に入ったとき、「不良債権の詳細の資料をロッカーに隠している」との内部通報があって、検査官が不良債権隠しを厳しく追及するという、ドラマのような出来事も起きました。この事件でその銀行は頭取が責任を取って退任しただけでなく、刑事告発を受け、さらにその後に他の大手銀行との合併に至っています。
この事件は特殊事情もありましたが、他の銀行でも不良債権の処理に伴い赤字決算となり、その穴を埋めるため公的資金を注入、首脳が退陣するケースが相次ぎました。
こうした経過をたどって、大手銀行の不良債権問題はようやく平成15年(2003年)に峠を越えることができました。バブル崩壊後の日本経済にとって重しとなってきた構造問題の一つが、これで解決のメドがついたことになります。
本丸は郵政民営化~郵政解散「刺客」で圧勝
小泉構造改革の第2の柱は、郵政事業などの民営化を柱とする行政改革です。対象となったのは、郵政事業の他に道路関係公団や営団地下鉄、新東京国際空港公団、政府系金融機関(住宅金融公庫など)、さらに各種の特殊法人で、これらを民営化して行政を効率化するとともに、民間企業に移行することによって民間の経済活性化につなげようとの狙いでした。いわゆる「官から民へ」の政策です。
しかし、これらの民営化には抵抗が強かったのも事実です。各種の公団や特殊法人などは各省庁がそれぞれ縦割りで管轄しており、官僚の天下り先でもあるため、その民営化をできるだけ避けたいとの本音がありました。また、それぞれにつながる業界やその利益代表たる族議員の抵抗も大きく、それだけに小泉首相は「聖域なき改革」を推進しました。
そうした攻防の主戦場となったのが郵政民営化です。従来は郵便、郵便貯金、簡易生命保険の郵政3事業は国の現業事業として運営されていましたが、小泉首相は若い頃から長年にわたって郵政民営化を持論としていました。
しかし全国2万4,000カ所の郵便局組織は自民党の大票田で、自民党内には民営化反対の意見が強くありました。一方、郵政の労働組合をバックにする野党はもともと民営化に反対で、与野党ともに民営化反対が強かったのが実態でした。
小泉首相はこれに一歩も引かず、郵政民営化を「構造改革の本丸」と位置づけて実現に向かって動き出します。党内の反対論を押し切って小泉首相は平成17年(2005年)に郵政民営化法案を国会に提出しました。8月の採決で衆議院では5票差のぎりぎりで可決されましたが、参議院では否決される結果となりました。自民党から多数の造反議員が出たたためで、政府提案の法案を与党議員の多くが反対して否決というのは異例の事態でした。
これを受けて小泉首相は即座に記者会見を開き、「郵政民営化の是非を国民に問いたい」として衆議院の解散を表明しました。深紅のカーテンをバックに、郵政民営化への固い決意を高揚感あふれる表情で語る小泉首相の姿が印象的でした。小泉首相の下で自民党執行部は郵政法案に反対した自民党議員には全員公認を出さず、その選挙区に自民党公認の「刺客」候補を立候補させました。
選挙戦では、郵政民営化に反対する人たちを「抵抗勢力」と呼んで、対決の構図を徹底して有権者の関心を高めることに成功しました。その結果、投票率が高まり、自民党は296議席を獲得して圧勝しました。まさに「小泉劇場」でした。
小泉首相は選挙直後の特別国会に郵政法案を再提出し、同法案は衆参両院ともに賛成多数で可決され、ついに成立しました。小泉首相は構造改革の本丸で闘いに最終勝利したのでした。その後、同法に基づいて郵政事業は郵便、郵貯、簡保の3事業に分割・民営化されて株式会社となり、現在に至っています。
規制緩和で経済活性めざす~「既得権益との闘い」
小泉構造改革の第3の柱は規制緩和でした。従来は弱小の業界や関係分野を保護するため、さまざまな規制が数多く存在していましたが、それがバブル崩壊後の日本では逆に自由な競争や経済活動を妨げるようになっていました。
例えば新規参入を規制している業界分野では、既存業者にとって規制に守られていることが既得権益のようになっているケースがあります。そうした規制を緩和することによって経済活動を活性化しようというのが小泉政権の狙いでした。しかし規制に守られていた関係業界の抵抗が激しく、思うように進みませんでした。まさに既得権益との闘いだったわけです。
規制緩和の一環として、構造改革特別特区も実施されました。全国一律で規定されている既存の法律や規制では実現できない施策を、地方自治体や地域限定で実施できるようにしたもので、いわば構造改革の実験地域のようなものです。その内容は、街づくりなどの地域振興策から、農業、教育、福祉・医療、エコロジーなど広範囲にわたり、特区で成果をあげれば全国に拡大される道も開かれているものです。
このほか経済の活性化策では、産業再生機構を平成15年(2003年)に発足させました。同機構は、有力な経営資源を持ちながら債務に苦しむ企業の再生を目的とし、経営再建を主導することが主な業務でした。同機構には公認会計士や経営コンサルタント、元銀行マンなど経営再建のプロが集結し、金融機関と協力して債務を削減を図るとともに、不採算事業の整理や事業再構築を進めたうえで、再建スポンサーを探すというユニークな組織でした。
同機構が支援した企業は41社で、ダイエー、カネボウ、大京などの大企業から、地方のホテル・旅館やバス会社などが含まれています。19年(2007年)までにすべての支援業務を終了して、解散しました。