ヤフーの株価は史上初の1億円台
こうした米国の影響によって、日本でも1990年代後半頃からITブームが起き始めていました。楽天、サイバーエイジェントなどが創業し、急成長を遂げていったのはこの時期です。IT企業の株価は急騰していきました。
中でも際立っていたのがヤフー(日本法人)でした。同社はソフトバンクが米国ヤフーとの合弁により平成8年(1996年)に設立し、9年(1997年)11月に店頭市場(現在のジャスダック市場)で株式公開していましたが、初値が200万円(額面5万円)だったのに対し、1年余り後の平成11年(1999年)1月に1,000万円を突破、それから1年後の平成12年(2000年)1月にはなんと1億円の大台乗せとなったのです。さらに2月には1億6,000万円まで上昇しました。株価1億円などもちろん史上初で、その後も現在に至るまでこの記録は破られていません。
ヤフー株は株式公開からわずか2年余りで50倍となったわけです。しかしそれまでに株式分割を2回実施していましたので、実質的には200倍以上になっていた計算です。ヤフー株は額面が5万円と高く設定され、公開株数も少なかったため株価が高くなりやすいという事情はありましたが、それを差し引いても、まさにITバブルそのものだったと言っていいでしょう。ヤフーの親会社のソフトバンク株も急騰し、平成10年(1998年)1月の東証1部上場から2年後の12年(2000年)2月には同じように50倍近くになっていました。
ソフトバンクの孫正義社長はこうしたITブームに乗って自ら証券取引所の設立に乗り出しました。米国のナスダック市場を運営する全米証券業協会と共同出資でナスダック・ジャパンを設立し、平成12年(2000年)に大阪証券取引所で新興企業向け市場としてスタートさせたのです(同市場はその後曲折を経て現在はジャスダック市場となっています)。これに対抗して東京証券取引所も新興市場「東証マザーズ」を開設するなど、株式市場は久しぶりに賑わいを見せるようになりました。
これがちょうど前述の大型景気対策の時期と重なり、景気回復の追い風となったわけです。こうして平成12年(2000年)、ITバブルはピークを迎えました。しかし「バブル」は崩壊する運命にありました。まず米国の株価が同年3月をピークに下落に転じ、景気全体も徐々に下向き始めました。米国の景気はやがて翌2001年9月11日の同時多発テロ(9・11)で一気に落ち込むことになります。9・11は私がニューヨーク駐在中の出来事で、この時のことは一生忘れることができません(詳しいことは別の機会に譲りたいと思います)。
早かったITバブル崩壊 金融政策の失敗も
このような米国の影響を受けて日経平均株価も平成12年(2000年)4月から下落基調をたどり始めます。ITバブルの崩壊とともに景気も下降線をたどり始め、結局、ITバブルはわずか1年余りで終わりを告げ、不況に逆戻りしていったのでした。
この時、不幸な出来事が重なりました。平成12年(2000年)4月に小渕首相が脳梗塞で倒れ、意識が戻らないまま1カ月後に亡くなったのです。そのため急きょ森喜朗氏が後任首相に就任したのですが、その選出の過程が不透明だったことや森首相自身の発言への批判などから不人気となり、結局、1年余りで退陣に追い込まれました。このような政治的な混迷も景気に影を落とすことになりました。その後も株価は下がり続け、平成15年(2003年)には日経平均株価が7,600円台まで落ち込み、バブル崩壊後の最安値を更新するに至ります。
ITバブルが短期間で終わってしまった理由は3つありました。第1は、株式市場でIT企業が実力以上にもてはやされ、株価が急騰しすぎたことです。そうした状態は長続きしないものです。またIT技術そのものは飛躍的な発展を遂げたのですが、ビジネスとしては未熟なIT新興企業も多く、中には不祥事を起こす企業や投資詐欺まがいの事件を起こす例もありました。
第2は、IT企業や関連分野は大きく成長しましたが、それ以外の多くの製造業や金融機関などは依然としてバブル崩壊の痛手から立ち直れていなかったことです。ちょうど日産自動車が倒産寸前の経営危機に陥り、ルノーとの提携によってゴーン氏が経営再建に乗り出したのは、この時期です(平成11年・1999年)。ほどなく日産は経営再建を果たしましたが、それはバブルとは正反対の、「ゴーン・ショック」と呼ばれるリストラによるものでした。多くの企業の業績は当時はまだ低迷したままだったのです。
金融機関も、一時のような破たんの危機はしのいだものの、まだ不良債権の処理は進んでおらず、大手銀行は生き残りをかけた合併や再編の途上でした。したがって日本経済全体としてみれば、景気対策の効果で一時的に回復していただけで、構造的には弱ったままの状態だったのです。
第3は、それにもかかわらず日銀が「景気は回復した」と判断して利上げに踏み切ったことです。日銀は山一証券の破たんなど金融危機に対応してすでに金融緩和を実施し、平成11年(1999年)に政策金利をゼロにまで引き下げる「ゼロ金利政策」を導入していました。しかしITバブルで景気が回復したとして、平成12年(2000年)8月にゼロ金利を解除して政策金利を引き上げたのです。
この時、政府はゼロ金利解除に反対したほか、多数の有力エコノミストがゼロ金利解除に反対する声明を発表しましたが、日銀はそれを押し切ってゼロ金利解除を強行しました。これは日銀がITバブルによる景気回復を「本物」と見誤ったこと、バブル再来を警戒しすぎたことなどがその理由として考えられますが、これが失敗だったことは明らかです。実際、この年の12月から景気は後退局面に入りました。
ITバブルは今日のIT革命の先駆けでもあった
こうしてみると、ITバブルは一時のあだ花だったように見えます。しかしそれだけで終わったわけではありません。この時期に花開いたIT技術やビジネスに今日のIT革命の先駆けとなったもの、あるいは私たちの生活のもとになったものが少なくありません。
実は、携帯電話の普及や技術開発は当初は日本が世界的に見て先行していました。1990年代後半に普及した携帯電話は通話機能だけでしたが、平成11年(1999年)にNTTドコモが「iモード」を開始、携帯電話でメールの送受信やインターネット接続が可能になりました。続いて平成12年(2000年)には携帯電話会社のJ-フォン(現・ソフトバンク)がカメラ付き携帯電話(写メ)をシャープと共同で開発し、販売を開始しました。
当時、J-フォンの技術開発責任者で写メの生みの親、高尾慶二氏によると、携帯電話の形状やデザインを崩さずにカメラを付けること、撮った写真をメールで送れるようにすることがポイントだったそうです。iモードで先行していたNTTドコモに対抗するため、残業に次ぐ残業で開発にこぎつけたそうですが、写メの開発成功によってJ-フォンの契約台数はKDDIを抜いて2位に躍り出ました。
J-フォンはその2年後、英国の携帯電話会社ボーダフォンの日本進出に際して傘下に入り、そのボーダフォンは平成18年(2006年)にソフトバンクが買収しました。高尾さんは「J-フォンのその後の経過を考えると少し複雑な気持ち」と打ち明けてくれましたが、その時代の技術が会社の枠を超えて今日のスマホやSNSにつながっていることは間違いないところです。
ITバブルは単なるバブルではなかったのです。4月1日にはいよいよ新元号が発表されますが、平成の次の時代にはITがますます発展し、経済や社会のあり方を変えていくことになるでしょう。
執筆者プロフィール: 岡田 晃(おかだ あきら)
1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。