オリンピック出場を期待されながら、心の弱さとケガで挫折した元水泳選手・桜井広海(反町隆史)。エリート商社マンだったが、ミスでプロジェクトから外された鈴木海都(竹野内豊)。
離婚の影響で母と別居し、わだかまりを抱える高校生・和泉真琴(広末涼子)。離婚で幼い息子と生き別れてしまった前田春子(稲森いずみ)。
恋人・海都が会社を辞めて民宿で働き始めたことに戸惑う山崎桜(秋元祐希)。心臓の病気を発症して内向的な性格になった寺尾はづき(原沙知絵)。
そんな「普通の人々が抱える悩みや悲しみを描く」という点は、生きづらさを抱える令和の人々も共感しやすい作品に見える。さらに「ダイヤモンドヘッド」は、そんな悩みや悲しみを抱える人々が立ち止まり、リスタートするまで心身を休める場所となっていた。
「人生は時にバカンスのような休息が必要」「いったん立ち止まって自分の悩みや悲しみと向き合う」という時代不問の普遍性が、今なお引きつけられる理由の1つとなっている。
夏ドラマでは珍しく夏休み終了以降の初秋までしっかり描いたのは、「いずれはそんな休息を終え、リスタートしなければいけない」というメッセージ性が込められていたからだろう。物語終盤、「ダイヤモンドヘッド」のオーナー・和泉勝(マイク真木)が広海と海都に言った「ここは俺の海だ。お前らの海は別にあるはずだ」というセリフがそれを物語っている。
また、ネタバレになるので詳しくは書かないが、最終話のラストで真琴が海に投げたボトルに入れたメッセージに、令和の今に通じる男女平等や多様性を感じさせられた。
影響を受けて会社を辞めた人々
前述したそれぞれの悩みや悲しみは誰にも起こりうることだが、重苦しさを感じさせなかったのは、明るく軽いムードがベースの作品だから。反町を中心に明るさと軽さを作品全体にまとわせているから、必要以上に暗さや重さを感じさせることはなかった。
なかでもその象徴は、各回のメインを張る登場人物が最後に笑顔を見せて終わるシーン。悩みや悲しみを乗り越えて笑顔を見せ、元気をもらって「ダイヤモンドヘッド」を去っていくというシーンが繰り返された。明るさと暗さ、軽さと重さ、静と動。それらのコントラストが同作を血の通った物語に引き上げている。
放送当時、「『ビーチボーイズ』の影響を受けて会社を辞めた。自分探しの旅に出た」という人が少なくなかったが、それは「令和の今、初めて見た」という人も同じかもしれない。
とはいえ、もし令和の今、『ビーチボーイズ』をリメイクしたら、同じように描けるとは思いづらいところがある。例えば「ダイヤモンドヘッド」を訪れる人々は1997年版のように心から夏や海を楽しみ、人生の休息を取れるだろうか。スマホを手放さず、ネットニュースを気にしたり、SNSにアップする写真を撮ろうとしたりするのではないか。その意味で当時だからこそ制作できた世界観の作品であり、「ダイヤモンドヘッド」は理想郷のような場所になれたのかもしれない。
反町、竹野内、広末、稲森ら、「のちにドラマシーンを彩る主演俳優たちのみずみずしい瞬間を切り取った」という意味でも価値は高い。だから何年たっても、何度見ても、変わらない胸の高まりと感動、切なさとノスタルジーがあり、明日に向かう元気をもらえるような名作なのだろう。
日本では地上波だけで季節ごとに約40作、衛星波や配信を含めると年間200作前後のドラマが制作されている。それだけに「あまり見られていないけど面白い」という作品は多い。また、動画配信サービスの発達で増え続けるアーカイブを見るハードルは下がっている。「令和の今ならこんな見方ができる」「現在の季節や世相にフィットする」というおすすめの過去作をドラマ解説者・木村隆志が随時紹介していく。