鴨宮が「東海道新幹線の発祥地」と言われるのはなぜ?

東海道本線の鴨宮駅前のロータリーに、「新幹線の発祥地・鴨宮」の碑が設置されている。新幹線の停車駅ではない鴨宮が、なぜ「新幹線の発祥地」なのか。ここでは、新幹線建設に至る経緯を見ていこう。

  • JR鴨宮駅前に「新幹線の発祥地・鴨宮」の碑が設置されている

戦後、東海道新幹線建設の検討が始まったのは、1956(昭和31)年5月。輸送量が限界に達していた東海道本線の線路増設を検討するため国鉄本社に設置された「東海道線増強調査会」においてであり、この増強調査会の委員長に島秀雄が就任した。

当時の国鉄総裁だった十河信二および島秀雄はともに広軌新線(新幹線)推進派であり、したがって、増強調査会は最初から広軌新線敷設を念頭に置いたものだった。だが、巨大な官僚組織であり前例主義を取る国鉄内の調整は、とにかく慎重を期す必要があった。そこで、既存の線路に狭軌の線路を併設する狭軌併設案、新たに別ルートで狭軌の新線を敷設する狭軌別線案、そして広軌別線案の3案が検討された。

計5回にわたり開催された増強調査会で、十河、島は広軌別線案で決着をつけようと努力したが、「国鉄の財政状態や施設の現状から見て、今直ぐに余り飛躍することは考えものである」といった広軌化への慎重意見が根強く出された。会議は堂々巡りの様相を呈し、第5回を最後に増強調査会は散会することとなった。

このような行き詰まった状況を打破する起爆剤の役割を果たしたのが、次に述べる鉄研の講演会だった。1957(昭和32)年5月30日、鉄研の新所長に着任した篠原武司の発案により、鉄研創立50周年記念行事のひとつとして、研究成果を一般聴衆を集めて公表する講演会を催すことになった。

この講演会は、「超特急列車、東京-大阪間3時間への可能性」という演題がセンセーショナルだったことに加え、新聞や国電内の吊り広告で宣伝したこともあり、当日は雨天にもかかわらず、会場の「山葉ホール(現・ヤマハ銀座店、ヤマハホール)」は満席で立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。

講演者は三木忠直(車両について)、星野陽一(線路について)、松平精(乗心地と安全について)、河邊一(信号保安について)の4名。三木は、当時、存在感を増しつつあった航空機への対抗の見地から、「東京~大阪を列車で3時間で結ぶためには、450~500km程度の距離(東海道本線は約560km)の広軌別線を敷設し、最高速度210km/h(表定速度170km/h、平坦線均衡速度250km/h)ぐらい出さなければならない。車両は流線形、軽量、低重心の電車形式が有望」と自説を語った。

当時の鉄道の状況を見ると、前年の1956(昭和31)年11月に米原~京都間が電化され、ようやく東海道本線の全線電化が完了し、特急「つばめ」「はと」の東京~大阪間が7時間半に短縮されたばかりだった。ビジネス特急「こだま」(東京~大阪間6時間50分)が登場するのは翌1958(昭和33)年11月という時代である。それを3時間で大阪まで行くというのだから、まさに度肝を抜くような話だった。

講演会の内容はマスコミを通じて報道され、話題となり、一般の人々に「夢の超特急・新幹線が間近に迫っている」という期待を抱かせた。十河はこの効果を最大限に利用し、講演会から1カ月後の7月2日、宮沢胤勇(たねお)運輸大臣に対し、東海道本線の増強に関する適切な配慮を要請。次いで8月30日の閣議決定を経て、運輸省に日本国有鉄道幹線調査会が設置された。こうして、東海道新幹線計画は実現に向けての弾みがついた。

  • 鴨宮~綾瀬間の旧モデル線区(後に営業線に組み込まれた)を走る現在の東海道新幹線

東海道新幹線の建設は、前例のないこと尽くしだったため、将来的に東海道新幹線の本線の一部となる区間を先行して建設し、高速度走行でのテストを実施するためのモデル線が必要となった。車両基地の選定にあたっては、「小田原・相模線の倉見・鴨宮の3つが候補に挙がったが、工事費や工期の関係で」(『新幹線開発百年史』中村信雄)鴨宮に置くことになり、鴨宮~綾瀬間の約32kmがモデル線となった。これこそ、鴨宮が「新幹線の発祥地」とされる理由である。

そして1963(昭和38)年3月30日、このモデル線で試験車両が256km/hという、電車方式による当時の世界最高速度を記録したのである。