ほとんど話題になることもないが、2024年はモノレールが歴史上、初めて登場してから200年目にあたる。記録に残る中で世界初とされるのは、1824年、英国人のヘンリー・パーマーが、木材レールと馬力を用いた貨物運搬用のモノレールをロンドンの造船所に敷設したものである。
その後、モノレールにはさまざまな方式が生まれたが、今回は「ロッキード式」という非常にレアなモノレールに着目する。同方式は小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレールと姫路市モノレールの2路線でしか実用化されなかった。2路線のうち向ヶ丘遊園モノレールについて、歴史を振り返るとともに、廃線跡を歩いてみることにしよう。
海外から輸入された近代モノレールの技術
モノレールには200年という長い歴史がありながら、営業線として成功した例はあまり多くない。営業線で現存する最古の路線は、1901年3月に営業開始したドイツのヴッパータール空中鉄道である。ヴッパータールの市街地は谷間の狭い地形に広がり、市内を流れるヴッパー川の上空に高速交通を通さなければならない事情があったため、モノレールが建設された。
だが、こうした特殊な例を除けば、わざわざ中空に1本のレールを敷設して、バランスを取るのが難しいモノレールを建設する理由がなかったため、実験的なものを除けば、長い間、日の目を見ることはなかった。
ところが、世界各国の都市で交通渋滞が社会問題化すると、軌道桁を支える橋脚を建てる用地と、簡易な構造物のみで建設可能なモノレールが、再び注目されることになった。とくに海外と比べて道路率(道路面積 / 土地面積)が低い日本の都市への導入は効果的と思われた。それまで都市交通の主役であった路面電車の代替として地下鉄を導入するには、巨額の費用が必要であり、中容量の乗客輸送であればモノレールが最適と考えられたのである。
こうした背景から、当時、海外で研究が進められていた、近代的なモノレールの技術が日本に輸入されることとなった。
そのひとつが、後に東京モノレールなどに導入された西ドイツ(当時)のアルヴェーグ式モノレール(跨座型)であり、コンクリート製の桁に跨ってゴムタイヤで走行する方式である。日本では日立製作所が技術提携した。
これよりやや遅れて日本に入ってきたのが、フランスのサフェージュ式モノレール(懸垂型)であり、パリ地下鉄で実用化済みのゴムタイヤ車両と、フランス国鉄が研究試作した振り子車両の理論を応用した設計に特徴があった。サフェージュ式は三菱グループが中心となり、後に湘南モノレール、千葉都市モノレールなどで実用化された。
そして、最後に登場したのがロッキード式モノレール(跨座型)だった。
ロッキード式のメリット・デメリットは
ロッキード式モノレールは、米国の航空機製造大手、ロッキード社が考案し、川崎航空機(現・川崎重工業)などが出資する日本ロッキード・モノレール社が実用化したもの。騒音低減の観点から、戦後に導入されたモノレールのほとんどがゴムタイヤ式だったのに対し、ロッキード式の最大の特徴は「鉄車輪式」であることだった。
具体的には、コンクリート製の桁の上に、ゴムパッドを介して1本の鋼鉄製のレールを敷き、その上を鋼鉄車輪(防振ゴムが挟み込まれた弾性車輪)の車両が走行するもので、バランスを取るために、上下2カ所の安定輪で側面から軌道を挟み込む機構を備えている。
鉄車輪を使用するメリットとしては、第一に耐荷重性が優れている(パンクの心配がない)ことが挙げられる。当時の運輸省の報告書によれば、鉄車輪式はゴムタイヤ式と比べて最大約1.5倍の輸送量になる。また、長距離、高速走行等の面でも有利である。車両構造の面でも、アルヴェーグ式は直径の大きなゴムタイヤが客室内に突出して床面がフラットにならず、有効客室面積が狭くなるが、鉄車輪ならばこの問題が解消される。
一方、鉄車輪式の最大のデメリットは、ゴムタイヤと比べて走行時の騒音が大きい点にあり、都市の街路を通す場合に大きな課題となる。
つまり、ロッキード式モノレールは都市内交通よりも、一般の鉄道に近い輸送需要に向いた仕様だったと理解できる。日本ロッキード・モノレールの説明資料にも、以下の一文があった。
「国鉄または私鉄における近郊輸送の行きづまった線区において、例えば、その上下線間に本方式を増設することにより、土地の新規確得(ママ)を最小限にして効果的な輸送力の増強がはかれることになる」
向ヶ丘遊園モノレールを建設した背景
小田急電鉄が向ヶ丘遊園モノレールの敷設免許を申請したのは1964(昭和39)年11月だった。それまで向ヶ丘遊園駅から向ヶ丘遊園正門まで(約1.1km)の来園者輸送を担っていた蓄電池式の豆電車を道路改修工事の関係で廃止せざるをえず、これに代わる交通手段としてロッキード式モノレールが採用されたのである。
当時、モノレールの規格として有力視されていたアルヴェーグ式ではなく、ロッキード式が採用されたのは、建設費が安かったことが理由とされる。小田急電鉄の資料を見ると、工事費は約2億4,000万円であり、豆電車の線路敷をそのまま活用したことを考慮してもなお、非常に安く感じる。参考として、同時期に開業した横浜ドリームランドモノレール(5.3km)の総工費は25億円かかっている(2021年4月11日付の本誌記事「開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの廃線跡を探索」参照)。
ロッキード式を導入した経緯について、小田急電鉄企画室課長(当時)の生方良雄氏は、「鉄道ピクトリアル」(1970年4月号)に「(川崎航空機が)岐阜工場で試験線をつくりテストをしたが、後にそれを小田急が買い、向ヶ丘遊園の豆電車の代替として設置した」と記している。設備を含め、どこまで転用されたかは不明だが、少なくとも車両は、客室扉の配置など若干の改造を行った上で試験線用のものを転用している。おそらく安く譲り受けたのだろう。
加えて、当時の鉄道業界が、通常の鉄道と技術的に近い鉄車輪式のロッキード式を高く評価していたことも、採用の後押しになったはずだ。向ヶ丘遊園の来園者輸送は、イベント時になると相当の乗客数が見込まれた。ゴムタイヤ方式の札幌市営地下鉄も開業前だった状況を考えれば、技術的な実績にもとづく安全性を重視した判断がなされたと見るべきであろう。
向ヶ丘遊園モノレールが開業したのは1966(昭和41)年の4月。本来は120km/hのスピードが出る車両だったが、わずか1.1kmの路線であることから最高速度は40km/hに制限された。ゆっくりと走りながら、多くの乗客を運んだ。
その後、同じロッキード式の姫路モノレールが、経営不振などから営業を休止し、1979(昭和54)年1月に廃止された。一方、向ヶ丘遊園モノレールは、2000(平成12)年2月に老朽化による台車の亀裂が見つかり、運転休止するまで、30年以上の長きにわたって運行が継続された。ロッキード社がモノレール事業から撤退したため、部品供給もままならなかったはずだが、小田急電鉄は鉄道会社だけに、部品をある程度、自社工場で内製できたのだろう。