時計回りにきれいな弧を描くようにして続くこの道路は、500mほどで多摩川の堤防へとたどり着く。途中、貨物線跡であることを示すようなものはなにもなく、これだけだと廃線散歩としては物足りない。

  • 宿河原の砂利採取線跡の道路。多摩川下流域では上流域での砂利採取が進むにつれて砂利の供給が不十分となり、1930年代半ばには採取制限が始まった。この採取線が活躍した期間は長くはなかったのだろう

  • 道路は駅から500mほどで多摩川の土手に突き当たる

そこで、多摩川の対岸に位置し、同じく砂利輸送を担った玉川電鉄の支線のひとつ、砧(きぬた)線の廃線跡へも足を運ぶことをおすすめしたい。こちらは廃線跡であることを示す遺構がいまなお数多く残っているので、楽しく歩ける。砧線の廃線跡散策経路などについては、2018年7月8日付の本誌記事「廃線から半世紀、今なお愛される『玉電』玉川本線と砧線跡をたどる』でも詳しく紹介している。

浜川崎支線はユニークかつローカルな雰囲気

南武鉄道が輸送した貨物は、川砂利だけではなかった。他の重要な貨物として、セメント原料や鉄鋼生産の副原料として使われる石灰石もあった。南武線の石灰石輸送は浅野財閥の影響によるところが大きい。

草創期の南武鉄道は資金調達が難航し、着工が遅れるなどしていたが、それに目をつけたのが浅野総一郎だった。浅野財閥は青梅鉄道(現・JR青梅線、1894年開業)や五日市鉄道(現・JR五日市線、1925年開業)を傘下に収め、沿線で石灰石を採掘・輸送していたが、川崎臨海部にある浅野セメント川崎工場や日本鋼管(浅野総一郎の娘婿・白石元治郎が社長)へ石灰石を輸送するには、中央線・山手線・東海道線経由で大きく迂回しなければならなかった。

一方、川崎~立川間を結ぶ南武鉄道が完成すれば、短絡ルートで石灰石を運ぶことができる。このように目論んだ浅野が南武鉄道へ資本参加することになった。

こうして1929(昭和4)年12月、南武鉄道は立川までの本線を全線開業させた。さらに川崎臨海部への輸送の利便性を図るため、1930(昭和5)年3月に浜川崎支線を開業させ、浜川崎駅で鶴見臨港鉄道と連絡。これにより、青梅方面から川崎・鶴見臨海部まで、浅野系資本の鉄道のみによる一貫輸送体系が実現した。

  • 浜川崎支線の浜川崎駅。駅舎入口は貨物線の高架下にある

  • 道路を挟んだ反対側に駅がある鶴見線に乗り換える際、ICカードを「タッチしないでください!」という珍しい案内がなされている

  • 鶴見線の浜川崎駅の案内板。昭和にタイムスリップした気分になる

なお、貨物支線として開業した浜川崎支線は、その翌月(1930年4月)から旅客営業も開始している。現在、浜川崎支線は浜川崎駅で道路を挟んで反対側に駅がある鶴見線に乗り換える際、ICカードを「タッチしないでください!」という案内がなされている。八丁畷駅から乗車する際は、京急線の改札を通過しなければならない。なんともユニークかつローカルな雰囲気を漂わせていて面白い。

新鶴見操車場への接続線も

さらにもうひとつ、ここで触れるべき重要な貨物支線がある。1929(昭和4)年に新設された新鶴見操車場(現在の新川崎駅およびその南側一帯の約42ha)の開設にともない敷設された貨物支線である。南武鉄道は向河原駅から新鶴見操車場へ接続する貨物支線を敷設するとともに、市ノ坪駅という貨物駅を開設した(市ノ坪駅は1944年の国有化時に新鶴見操車場に統合・廃止。貨物支線は1973年に廃止)。

  • 中央上に南武線から分岐し、市ノ坪で品鶴貨物線に合流する貨物短絡線が描かれている(出典 : 1942年12月調製「木月」地形図部分)

  • 向河原駅を降りるとNECの高層ビルや武蔵小杉のタワマンが目に入る

  • NECの研究所敷地と線路の間の道を南(平間駅方面)へ向かう

この貨物支線跡も、現在は緑道として整備されているので歩いてみよう。1942(昭和17)年12月の地形図を見ると、当時、向河原駅は「日本電気前」という駅名だったことがわかる。向河原駅の改札を出て、西側に目を向けると、そびえ立つNECの高層ビルが目に入る。いまでも「日本電気前」という駅名がしっくりくるように思う。

NEC研究所の敷地と南武線の線路との間に、自転車・歩行者専用の細い道がある。これを南へ200mほど進むと、進行方向右手の福祉施設前の道路両側に、鉄道の橋台が残っている。道路底面に対して橋台が低すぎるが、これは後年、道路のかさ上げが行われた結果であろう。

  • 鉄道の橋台が残っている

  • 住宅の間を行く「市ノ坪緑道」

  • 「市ノ坪緑道」は横須賀線(品鶴線)線路の手前まで続く

2つの橋台の延長線上に目をやると、緑道の入口が見える。「市ノ坪緑道」と名づけられたこの緑道が貨物支線の跡であり、横須賀線(品鶴線。1980年の横須賀線乗入れ以前は貨物専用だった)の線路手前まで200mほど続いている。

さて、今回は南武線にかつて存在した支線の跡を歩いた。南武線には、他にも小田急線の稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)駅から南武線の宿河原駅までを結んだ連絡線をはじめ、津田山駅付近に日本ヒューム管川崎工場の専用側線なども存在した。これらの支線・連絡線が廃止されて久しいが、その跡をたどれば、埋もれていた鉄路の歴史がよみがえってくるようだ。