今年、JR鶴見線はその前身となった鶴見臨港鉄道の設立から100周年を迎える。鶴見臨港鉄道は、浅野財閥(現・太平洋セメントの源流のひとつである浅野セメントが中核)を率いた浅野総一郎らによって造成された鶴見・川崎の埋立地(末広町、安善町、白石町、大川町、扇町など約150万坪)の物流を担うため、1924(大正13)年に創立。その後、戦時買収を経て、戦後は国鉄(現・JR)鶴見線となった。
この鶴見線の特徴としてすぐに思い浮かぶのは、多くの支線が存在することだ。海に面した海芝浦駅と隣接する海芝公園が観光スポットにもなっている海芝浦支線。首都圏で最後まで旧型国電が走った大川支線。石油輸送を担い、いまも不定期ながら石油輸送で使われている旧・石油支線(終点の浜安善駅は1986年廃止。現在は安善駅の構内扱い)。鶴見区末広町の工場群の物流を担った鶴見川口支線(1986年廃止)などもあった。
鶴見臨港鉄道と同じく浅野系企業であった南武鉄道(現・JR南武線)にも、かつては通称「浜川崎支線」(尻手~浜川崎間)および貨物専用の通称「尻手短絡線」(尻手~新鶴見信号場~鶴見間)以外に多くの支線が存在した。JR南武線の支線は普段注目されることも少ないが、昨年9月、浜川崎支線に新潟地区からE127系が投入され、話題になった。首都圏で数を減らしている205系も、浜川崎支線で引き続き活躍している。さらに今年は南武鉄道が戦時買収・国有化され、南武線になってから80年目でもある。
これを機に、南武線に注目し、かつて存在した支線跡を歩きながら、同路線の知られざる歴史を掘り起こしてみたいと思う。
多摩川河畔に設置された川崎河岸駅
南武線に支線が数多く存在した理由は、その生い立ちを調べてみればわかる。南武線の起源は、1919年(大正8)年に鉄道院へ鉄道敷設免許を出願した多摩川砂利鉄道までさかのぼる。
当時は、鉄道・道路の整備や、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用のほか、前述した浅野総一郎らによる鶴見・川崎地域の臨海部埋立て・工業地帯造成の動きなどがあり、大量の砂利が必要とされた時代だった。鉄道関係では、万世橋~神田間の鉄筋コンクリート製高架橋が完成したのもこの時期である。
そのため、多摩川では玉川電気鉄道(後の東急玉川線、1907年開業)、東京砂利鉄道(国分寺~下河原間、1910年開業)、京王電気軌道(現・京王電鉄、1913年開業)、多摩鉄道(後の西武多摩川線、1917年開業)などが、ひと足早く砂利輸送を行っていた。
多摩川砂利鉄道は、こうした先行企業の背中を追いかけるかたちで、「一般旅客貨物ノ運輸ヲ営ミ併セテ沿線各地ニ於テ産スル砂利採集」(免許申請書)することを目的に計画された。1921(大正10)年の会社設立時に社名を南武鉄道へ変更した後、1927(昭和2)年3月に川崎~登戸間の本線(17.2km)および矢向~川崎河岸間の貨物支線(1.6km)を開業させた。旅客列車を川崎駅で東海道線に接続させる一方、貨物専用の川崎河岸駅を設けることで貨客分離を図った。
南武鉄道による砂利採取は宿河原と中野島で行われた。貨物列車に積み込まれた砂利は川崎河岸駅まで運ばれ、同駅で船や艀(はしけ)に積み替えられ、目的地へと運ばれた。川崎河岸駅の船積み設備がどのようなものだったかについては、『南武線いまむかし』(原田勝正著)に次の記述がある。
「多摩川右岸につくった船溜の上に、いくつものじょうごの口が斜めに突き出ていて、その上に貨車を引き込む線路が走っている。砂利などを積んだ貨物列車が到着すると、貨車の側板を倒す。するとそのまま、このじょうごから船に荷を卸すことができる。こんな設備がここにはあった。」
川崎河岸駅跡へ、貨物支線跡を歩く
この川崎河岸駅跡をめざし、矢向駅から貨物支線の廃線跡を歩いてみよう。1928(昭和3)年に測量された地形図を見ると、矢向駅で本線と分岐した貨物支線はカーブを描いて東へ進路を取り、多摩川の河川敷に至っている。河畔には港のドックのような掘込み(船溜)が2本つくられ、その間に線路が引き込まれている。ここで砂利の船積みが行われた。
現在、この貨物支線廃線跡の大部分が「さいわい緑道」という遊歩道として整備され、地元の人々によって休憩スペースなどが設けられ、気持ちよく歩くことができる。かつて、この場所を貨物線が走っていた痕跡がなにか残っていないか探していると、地元のこどもたちの手によるものだろうか、タイルを使った壁画に「川崎河岸駅」の文字が見られた。残念ながら駅の方向を示す矢印が反対向きになっているが、ご愛嬌である。
さらに歩を進めると、国道1号をクロスする手前に、「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と記された記念碑を見つけることができた。記念碑の下部に貼り付けられたQRコードを読み取ると、南武鉄道とこの貨物線についての簡単な動画を見ることができる。
国道を渡った先には南河原公園という公園があり、桜の木がたくさん植えられている。花見シーズンに再訪したいところだ。そのまま小学校の裏手を進むと、間もなく広い空間が開ける。ここが川崎河岸駅跡の緑道公園である。地形図と照らし合わせてみると、駅の敷地がほぼそのまま公園として整備されていることがわかる。
ところで、川崎河岸駅が砂利の積替え場として機能していた当時は、この先の国道409号を超えて、多摩川の河畔まで線路が延びていた。
川崎市明細地図(川崎市立中原図書館所蔵)を確認すると、1959(昭和34)年版では国道を横切って河畔へと続く線路が描かれているが、1961(昭和36)年版では国道手前で線路がストップしている。砂利の積替え施設は、太平洋戦争後は使われなくなっていたようだが、線路は1960(昭和35)年前後まで残っていたのだろう。
現在、国道を渡った先はマンションになっており、私有地のため立ち入ることができない。残念ながら廃線散歩はここまでということになる。
なお、川崎河岸駅が最終的に廃止されたのは1972(昭和47)年5月のこと。駅に隣接して存在した東京製綱川崎工場(現在の市営河原町団地敷地)が1969(昭和44)年に閉鎖されたことなどから、貨物輸送需要が消滅したことによるものと考えられる。
南武鉄道の砂利採取線跡をたどる
次に、南武鉄道の砂利採取線跡もたどってみよう。前述した通り、南武鉄道は宿河原と中野島で砂利採取を行っていた。このうち中野島の砂利採取線跡は、宅地開発等により消え去ってしまい、たどることができない。一方、宿河原のほうはいまも廃線跡が道路としてきれいに残っている。宿河原の砂利採取線跡を歩いてみることにした。
宿河原駅は「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」の最寄り駅なので、降りたことのある人も多いだろう。砂利採取線の廃線跡へ向かうには、改札を出て跨線橋で駅北側に渡る。跨線橋上から眺めると、多摩川の方角に向かって弧を描く廃線跡の道路が見える。